ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

キリスト自身が暗示する「ソラ・スクリプチューラ」




 イエスさまや1世紀のクリスチャンたちは、どのような聖書を読んでいたのでしょうか?
 
 この動画を見ると、プロテスタントの「聖書のみ」という原理が正しいことがわかりがます。
 
 1世紀に流通していた聖書の形態や、キリストや使徒の正典に関する姿勢を探ることで、経外典や伝承を信仰の規範としないほうが適切であることがわかります。
 
 抄訳ではありますが、ご一緒にその点を理解したいと思います。
 
 動画を見る前に念のため一言。

 この動画を投稿しているSeedbedという団体は、聖書を神の言葉と信じるウエスレアン系の福音主義団体です。 
 
 向かって左のビル・アーノルド博士はアズベリー神学校で旧約聖書を、右のベン・ウィザリントン博士は同神学校で新約聖書をそれぞれ担当しておられます。
 
 お二人へのインタビューは、「1世紀の聖書はどのようなものだったのか?エスが読んでいた聖書はどのようなものだったのか?」という問い掛けではじまります。
 
 その答えとして、まずアーノルド博士が答えます。
 
「ほとんどが七十人訳でした。初代のクリスチャンたちは礼拝で七十人訳を使っていました。それ以前はユダヤ人たちがシナゴーグ七十人訳を使っていました」(059   
 
 バトンを渡されたウィザリントン博士は、このテーマが大きな議論になっていることを述べた上でこう答えます。
 
「イエスアラム語を話していたことは知られています。彼がシナゴーグイザヤ書を読んだ際、それはヘブル語で書かれていたはずです。イエスはそれをアラム語に訳していたか、アラム語で言い換えていたのではないかと私は推察しています」
 
「しかし、キリスト教が広まりはじめてからは、初代のクリスチャンたちが使っていたのは旧約聖書ギリシャ語訳である七十人訳が圧倒的だったというのは間違いありません」
 
「そして忘れないでいただきたいのは、当時は新約聖書がまだありませんでしたので、初代のクリスチャンが持っていた聖書は旧約聖書だけであったということです」(229
 
「ですから、ほとんどの場合、彼ら(1世紀のクリスチャン)はギリシャ語で聖書を学んでいたと思います」(249
 
                 * * *
 
ブログ主:さて、七十人訳には「経外書、外典、偽典などの名で知られる文書群」も含まれます。
 
 ですから、ここまでの話を聞いただけですと、私たちも経外典や偽典を読むべきなのだろうか?と思わされてしまいます。
 
 しかし結論は、そうではありません。続きを見ていきましょう。
 
                 * * *
 
 しばらくしてからアーノルド博士が割り込んで、こう言います。
 
「興味深いのは、パウロが(書簡の)数カ所において、自分自身で(七十人訳を)ギリシャ語に訳していた可能性があるということです。それ以外の場合は、七十人訳から引用していたことは明白です」(322
 
「特にパウロは幾つかの引用箇所においてギリシャ語への独自の翻訳をしていましたので、彼はヘブル語の聖書を学んでいたのかもしれません」(331
 
 この見解に同意したウィザリントン博士が語りはじめます(346)。
 
「非常に興味深いのは、(福音書の中で)エスが『~と書いてある』と言う場合、それは旧約聖書を指していたということです。
 
 例外的にユダが(ユダの手紙の中で)正典には含まれていない第一エノク書から引用していますが、ユダはイエスと同じ表現方法を取らずに『エノクも…預言してこう言っています』と書いています。
 
 これは『~と書いてある』という表現方法と異なっています。ですから私にとって十分はっきりしているのは、初代のクリスチャンの聖書は私たちが知っている旧約聖書だけだった可能性が高いということです」(428
 
 
聖書観について
 
 上記のとおり、初代のクリスチャンが使用していた聖書は七十人訳聖書です。
 
 しかしエスさまは、経外典にはまったく言及しませんでした
 
 ウィザリントン博士が指摘しているとおり、主が「~と書いてある」と言われた際、それはヘブル語聖書を指していたのです。
 
「~と書いてある」を含む聖書箇所は、聖書用語検索でざっと検索しただけでもこれだけあります。
 
 
エスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
エスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」
そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」
そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる』と書いてあるからです。
だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」
エスは言われた。「エリヤがまず来て、すべてのことを立て直します。では、人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか。
そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」
――それは、主の律法に「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない」と書いてあるとおりであった――
エスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」
エスは答えて言われた。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい』と書いてある。」
こう言われた。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」
エスは、彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。
あなたがたに言いますが、『彼は罪人たちの中に数えられた』と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです。わたしにかかわることは実現します。」
弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。
私たちの父祖たちは荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
わたしは、あなたがた全部の者について言っているのではありません。わたしは、わたしが選んだ者を知っています。しかし聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた』と書いてあることは成就するのです。
 
 
 主イエスはこれらの言葉によって、信仰の規範とすべきなのは神の言葉であると示唆しておられます。
 
 一方、聖書以外のものに対しては否定的な言葉を残しています。
 
 
マルコ7:13
こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。
 
 
 このようにイエスさまは、「言い伝え」と「神の言葉」を区別することで、「言い伝え」が神の言葉ではないことを明示されました。
 
 にもかかわらず、カトリック正教会は聖書の他に聖伝外典偽典も信仰の規範にしているのです。
 
 そのような信仰のあり方がキリスト的と言えるでしょうか?
 
 初代のクリスチャンが七十人訳を使っていたからという理由で、現代のクリスチャンも外典や偽典を信じるべきでしょうか?
 
 カトリック正教会には組織的かつ神学的に一致があるにもかかわらず、プロテスタントはバラバラだから、「聖書のみ」という原理は間違っているのでしょうか?
 
 私はそうは思いません。
 
 パウロは2テモテ3:16で、「聖書と伝承は…神の霊感によるもの」とは書かず、「聖書は…神の霊感によるもの」だと書きました。
 
 
2テモテ3:16
聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
 
 
 逆に言えば、カトリック正教会が信仰の規範としている聖伝は、神の霊感によるものではないのです。
 
 ですからその聖伝なる書物は、必ずしも「教えと戒めと矯正と義の訓練のめに有益」とは言えません。
 
 カトリック正教会は、そのような書物に神の言葉と同等の権威を与えているのです。
 
 パウロの言葉に照らすなら、そのような扱いは非聖書的と言わざるを得ません。
 
 
●おわりに
 
 最近は、プロテスタントの中にも「聖書のみ」という原理が誤りだと言う人が出てきました。
 
 あるブロガーの方は、このように告白されています。

私はこれらの教理(注:「聖書のみ」と「信仰のみ」)が歴史的キリスト教に基づかず、神学的/歴史的/哲学的吟味に耐え得ない16世紀生まれの特殊教理であるとの結論に達しました。引用元
 
 
 ちなみに、「信仰のみ」が誤りだということが何を指すかと言うと、救いには行いが必要だということです。
 
 しかし主イエスは、「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言明されています(マルコ1052、ルカ750
 
「あなたの信仰と行いがあなたを救った」とは言っておられません。
 
 救いというのは超自然的な奇跡です(ヨハネ336、2コリ51721
 
 肉なる者の行いで奇跡を起こせるなら(あるいは奇跡の実現に貢献できるなら)、聖書の言葉は偽りになってしまいます(エペソ28、ローマ32123
 
 イエスさまは、聖書だけを「神の言葉」と呼びました。
 
 使徒パウロもそれに同調しています。
 
「聖書のみ」という表現そのものは聖書に書かれていませんが、主イエスパウロの姿勢を明瞭化したものであって、主イエス使徒の教えと合致しているのです。
 
 おわり