キリスト自身が暗示する「ソラ・スクリプチューラ」
イエスさまや1世紀のクリスチャンたちは、どのような聖書を読んでいたのでしょうか?
抄訳ではありますが、ご一緒にその点を理解したいと思います。
動画を見る前に念のため一言。
その答えとして、まずアーノルド博士が答えます。
バトンを渡されたウィザリントン博士は、このテーマが大きな議論になっていることを述べた上でこう答えます。
「イエスがアラム語を話していたことは知られています。彼がシナゴーグでイザヤ書を読んだ際、それはヘブル語で書かれていたはずです。イエスはそれをアラム語に訳していたか、アラム語で言い換えていたのではないかと私は推察しています」
「ですから、ほとんどの場合、彼ら(1世紀のクリスチャン)はギリシャ語で聖書を学んでいたと思います」(2:49)
* * *
ですから、ここまでの話を聞いただけですと、私たちも経外典や偽典を読むべきなのだろうか?と思わされてしまいます。
しかし結論は、そうではありません。続きを見ていきましょう。
* * *
しばらくしてからアーノルド博士が割り込んで、こう言います。
この見解に同意したウィザリントン博士が語りはじめます(3:46)。
これは『~と書いてある』という表現方法と異なっています。ですから私にとって十分はっきりしているのは、初代のクリスチャンの聖書は私たちが知っている旧約聖書だけだった可能性が高いということです」(4:28)
●聖書観について
上記のとおり、初代のクリスチャンが使用していた聖書は七十人訳聖書です。
ウィザリントン博士が指摘しているとおり、主が「~と書いてある」と言われた際、それはヘブル語聖書を指していたのです。
そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」
だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」
そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」
――それは、主の律法に「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない」と書いてあるとおりであった――
こう言われた。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」
あなたがたに言いますが、『彼は罪人たちの中に数えられた』と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです。わたしにかかわることは実現します。」
弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。
私たちの父祖たちは荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
わたしは、あなたがた全部の者について言っているのではありません。わたしは、わたしが選んだ者を知っています。しかし聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた』と書いてあることは成就するのです。
主イエスはこれらの言葉によって、信仰の規範とすべきなのは神の言葉であると示唆しておられます。
一方、聖書以外のものに対しては否定的な言葉を残しています。
マルコ7:13
こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。
このようにイエスさまは、「言い伝え」と「神の言葉」を区別することで、「言い伝え」が神の言葉ではないことを明示されました。
そのような信仰のあり方がキリスト的と言えるでしょうか?
私はそうは思いません。
パウロは2テモテ3:16で、「聖書と伝承は…神の霊感によるもの」とは書かず、「聖書は…神の霊感によるもの」だと書きました。
2テモテ3:16
聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
ですからその聖伝なる書物は、必ずしも「教えと戒めと矯正と義の訓練のめに有益」とは言えません。
パウロの言葉に照らすなら、そのような扱いは非聖書的と言わざるを得ません。
●おわりに
最近は、プロテスタントの中にも「聖書のみ」という原理が誤りだと言う人が出てきました。
あるブロガーの方は、このように告白されています。
ちなみに、「信仰のみ」が誤りだということが何を指すかと言うと、救いには行いが必要だということです。
「あなたの信仰と行いがあなたを救った」とは言っておられません。
肉なる者の行いで奇跡を起こせるなら(あるいは奇跡の実現に貢献できるなら)、聖書の言葉は偽りになってしまいます(エペソ2:8、ローマ3:21~23)。
イエスさまは、聖書だけを「神の言葉」と呼びました。
おわり