ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

ピーター・エンズ「確実性の罪」

   

 
 米国の福音主義の内部では、ピーター・エンズの著書「確実性の罪/The Sin of Certainty」が物議を醸しています。

 同書の予告編(上の動画)の中で、エンズは次のように述べています。
 
問題なのは、神に信頼せずに自分たちの信条(beliefs)に信頼することだ
 
我々は、創造主を自分たちに理解できることの中に閉じ込めてしまっている
 
 そして、著書の中では、次のように述べています。
 
正しい考えというのは、確実性を意識させる。確実性がない場合、私たちは、信仰は良くても虫の息の状態だと恐れるし、悪くすれば、信仰はすでに死んで埋葬されていると恐れる。死んだ信仰や死にかけの信仰など、誰が欲しがるだろうか。
 
そういうわけで、確実性を手放すことの恐れは、人をして正しい考えにのめり込ませる。そして、万難を排してお馴染みの信条が擁護され、支持されることになるのだ。…
 
正しい考えにのめり込むこむこと。これほど厄介な問題はない。それは信仰から命を奪い去り、間違った考えを防ぐための、単なる見張り役にしてしまう。…
 
そのような信仰は、維持するのが面倒だし退屈である。…
 
神に対する信仰と教理の確かさをワンセットにしたり、健全な信仰を維持するためには、正しくなければならないと考えたり、そんなことをしたところで、健全な信仰を持てるわけではない。
 
詰まる所、それ自体が問題なのだ。私が「確実性の罪」という言葉で云わんとしているのは、まさにそのことである。
 
 
 
 エンズの言葉の中に、「正しい考え/correct thinking」「自分たちの信条」とった表現があります。
 
 これらは、福音主義がこれまで信奉してきた聖書教理一般、また、それを導き出す伝統的な聖書解釈を指しています。
 
 前回の記事で述べましたが、ピーター・エンズは進化論を信じ、創世記は単なる神話だと考え、イエス・キリストさえも「知識において制限されていた」と主張しています。
 
 つまりエンズは、福音主義の聖書理解を敵視しており、そういう「お馴染みの信条」によって健全な信仰を維持しようとするのは間違っていると言っているのです。
 
 彼によれば、信仰とは神についての正しい理解ではなく、人格的存在である神への信頼です。
 
 神に対する人格的な信頼という部分はそのとおりですが、神に対する正しい理解を否定するなら、人は神観を持つことができません。
 
 この記事では、この点を検証してみたいと思います。
 
 
聖書が言う信仰
 
 さて、正しい信仰を考えるに当たり、信仰の父アブラハムを見てみましょう。
 
創世記15:5~6 
そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
 
 
 この箇所に「彼はそれを信じた」とあります。この部分には、アマーンという動詞が使われています。
 
 祈りの後につけるアーメンの動詞形で、確かなことに対する同意を示す言葉です。
 
 神が「あなたの子孫はのように増えると言ったとき、アブラハムは思いの中でアマーンしたのです。
 
 この箇所を新約聖書に引用したのが、ローマ4:3です。
 
ローマ4:3 
聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。
 
 
 この聖句の「信じた」に使われているギリシャ語はピスチューオーです。新約聖書の中で「信じる」と訳されている言葉です。
 
 さて、このピスチューオーは、ヤコブ2:19でも使われています。
 
ヤコブ2:19 
あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。
 
 
 この聖句によると、クリスチャンも悪霊も、どちらもピスチューオーします。しかし、言うまでもなく悪霊の信仰は偽物です。
 
 では、クリスチャンのピスチューオーと、悪霊のそれとではどこが違うのでしょうか?
 
 ヤコブ書の聖句から偽の信仰を分析すると、次のようになります。
 
 偽の信仰=神の性質に関する正しい知識
 
 これは、悪霊たちが、神の性質に関して知的に同意しているのみ、神はこのような存在だと知的に認めているだけで、人格的な信頼はしていないということです。
 
 それに対して、本物の信仰(アブラハム的信仰)はこうなります。
 
 本物の信仰=神の性質に関する正しい知識+神という人格に対する信頼 
 
 悪霊は神に対して、人格的な信頼を表明しません。信頼しているなら、自発的に従うことになります。
 
 しかし悪霊たちは、神がどのような方であるかに関する知識は持っています。知識だけか、それとも人格的な信頼が伴うか、これが両者の信仰の違いです。
 
 アブラハムが主の語り掛けを信じることができたのは、彼が神の人格を体験的に知っていたことによります。
 
 神の選びによって、聖霊の啓示が働いていたということもあったでしょう。
 
 ヤコブ2:19で伝えようとしているのは、神に関する正しい知識しか持っていないなら、その人の信仰は悪霊どもと同じで、人格的な信頼に欠けているということです。
 
 しかし、正しい神観に加えて人格的な信頼が働くとき、アブラハムのような信仰になると言っているのです。
 
 
エンズとの比較
 
 では、ピーター・エンズの主張と比較してみましょう。
 
問題なのは、神に信頼せずに自分たちの信条(beliefs)に信頼することだ
 
正しい考えにのめり込むこむこと。これほど厄介な問題はない。それは信仰から命を奪い去り…
 
健全な信仰を維持するためには、正しくなければならないと考えたり、そんなことをしたところで、健全な信仰を持てるわけではない
 
 こういった言説を考慮すれば、どこが違うかは一目瞭然です。エンズは、神についての正しい知識を否定しているのです。
 
 言い換えると、正しい神観、神に関する正しい認識を否定しているのです。 
 
 しかし聖書によれば、アブラハム的信仰=正しい神観+人格的信頼です。
 
 エンズの主張する信仰は、人格的信頼だけを主張していて、正い神観が抜けています。
 
 しかし、相手がどのような存在かを知ることなしに、人格的に信頼することはできません。
 
 エンズの主張には、論理的に無理があります。
 
 
●あとがき
 
 エンズは自身のブログで、「疑いはかっこよくないし、流行の先端を行ってもいないが、神聖である」ということも言っています。
 
 一見すると、エンズは、認識論のキリスト教版を主張しているかのように思えます。
 
 しかし彼の聖書観を考慮するなら、主張の本質は認識論ではなく、聖書論だと思います。
 
 エンズにとって、聖書は不確実な内容です。ですから必然的に、神観も不確実でなければならないのです。
 
 キリスト教信仰における不確実性を強調し、確実性を否定する。これは一重に、彼の聖書観を反映しています。
 
 一方、伝統的な福音主義は、神を知るための確かな基準を聖書に置いています。
 
 聖書を確かな信仰の基準とし、聖書を通して神を知ろうとします。
 
 この点でエンズは、従来の福音主義と相容れることができないのです。
 
 しかし私たちは、主イエスが神の言葉を伝えるために来られたことを知っています。

 
ヨハネ17:8、14・新共同訳
なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて…
わたしは彼らに御言葉を伝えました…
 
ヘブル1:1~2・新共同訳
神は…この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました
 
 
 これらの聖句からわかるのは、キリストの初臨における使命の一つは、神の言葉を伝えることだったということです。
 
 エンズは聖書を不確実なものと考えていますが、それはとりもなおさず、キリストの働きが失敗だったと言っていることになります。
 
 ということは、キリストを遣わすことにより、人類にご自分を啓示させた神の計画もまた失敗だったと言うことになります。
 
 結局、エンズのように聖書を歪曲するなら、キリストや神をも歪曲することになるのです。
 
 しかし、主イエスはこう言っています。
 
ヨハネ17:17 
真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です


 私たちは主イエスが正しく神の言葉を伝えたことを肯定し、その御言葉に信頼していきましょう。

 聖書の中には、神の言葉を疑うことが「神聖」だとは書かれていないからです。

 おわり