ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

ピーター・エンズのアダム論・聖書解釈論

 米国の旧約聖書学者ピーター・エンズ(Peter Ennsは、「聖書的キリスト教の再考」という自身のブログで、創造論者のケン・ハム氏(米創造博物館の最高経営責任者で館長)を批判しています。 
 
 具体的には、ハム氏のミニストリー団体「アンサーズ・イン・ジェネシス」が発行した以下のポスターの内容を批判しています。
 
イメージ 1
 
 
 エンズは、ポスターの内容を次のようにまとめています。 
 
1.創世記1~3章は本当にあった歴史として書かれている 
2.アダムがとった行動には物理的な体が必要である
3.アダムは、キリストの瑕疵なき系図に見られる最初の人間である
4.創世記以外の聖書全体においても、アダムは実在の人間として描かれている
5.福音はアダムの実在性にかかっている
 
 私も含めて保守的福音主義の皆さんは、上記の5項目がまったく聖書的であることに気づかれると思います。しかしエンズは、ハム氏の見解をさらに解説した上で、これらすべてを否定します。

ハムはどうしてこのことがわかるのだろうか。それは次の理由からだ。
 
a.これらの章は、詩的平衡法を示しているのではなくナラティブ(物語)である。旧約聖書にある他のナラティブ同様、歴史的な記述である。それゆえ、創世記1~3章もまた歴的な記述である。
b.創世記全体が、途切れることない歴史である。創世記の4章以降が歴史の記述である以上、1~3章も歴史の記述である。
c.創世記は一貫して、「これは~の記録である」というフレーズを繰り返している。それゆえ、創世記の全体が歴史に関するものである。
d.創世記1~11章は昼と夜などに言及しており、例えば箱舟が漂着したアララテ山など、地理的場所についても述べている。それゆえ歴史的なものである。
e.アダムは、動物の命名や睡眠、エデンの園の手入れなどを行ったし、寿命もあった。だから、人間でなければならない。
 
 私から見ると、上記の説明は実に的を射ていると思いますが、エンズは次のように批判します。
 
創世記がこれらのことを述べているからといって、創世記が歴史的なものだということにはならない。それは「ホビット」や「ギルガメシュ叙事詩」の登場人物たちが、歴史的な存在ではないのと同じことだ。
 
 そして、最終的にこう結論づけます。
 
結局のところ、ハムは、自分の見解が聖書の言い分だと誤解しているのだ。…アダムを擁護するハムの論拠は、「聖書が言っていること」ではなく、聖書はそう言っているという彼の思い込みなのだ。つまり彼にとっては、聖書はそう言っていなければならないのだ。
 
 
エンズのアダム論                              
 
 エンズはハム氏を批判するものの、創世記の箇所の意味については、ブログ記事で述べていません。
 
 そこで「聖書信仰とその諸問題」(P125P136から、エンズのアダム論を抜粋します。
 
「もしもアダムの物語が人類の起源についてではないとすれば、聖書と進化論の間の矛盾(衝突)は消滅する。」
 
では、人類の起源でないとするならば、創世記の記されたアダムは何を表しているのか。これに関して、エンズは創世記1章と2章・3章のアダムを分けて理解する。創世記1章のアダムの創造は「神が人類を創造した」ということを伝えるののに対し、(アダム=人類)、創世記2章と3章のアダムは国家としてのイスラエルを指すとエンズは考える。…
 
エンズは、創世記2章にあるアダムの創造は人類の起源を記したものではなく、出エジプトにおける国家としてのイスラエルの起源を表現したものであると説く。しかしローマ人への手紙5章やコリント人への手紙第一15章にて、パウロが創世記のアダムを歴史的存在であるかのようにキリストと対比させていることはどのように理解するのであろうか。エンズ自身もこれについては「一見すると、パウロにとってアダムは神学的でかつ歴史的に生きた存在である認めざるを得ない」と記す。
 
しかし、ここでエンズは、Christorelic(キリスト目的的・キリスト終着的)アプローチと第二神殿時代のユダヤ教における聖書の再解釈の慣習に注意を払わねばならないと強調する。
 
では、ローマ人への手紙5章やコリント人への手紙第一15賞にあるアダムとキリストの対比をどのように理解するのか。
 
まずエンズはアダムとキリストの歴史性を同じように認識せず、キリストの存在と復活は「実際の歴史的出来事」であるのに対し、アダムの存在については「原始の時代についtパウロが用いた文化的過程」にすぎないとする。つまり、パウロは創世記のアダムを史実として引用したのではないというのである。…パウロが創世記のアダムを再解釈し、ローマ人への手紙に引用する際に新たに加えた要素であるというのである。
 
そうであるとすれば、パウロが創世記のアダムを再解釈して伝えたメッセージは何であるのか。それは、キリストの復活によりユダヤ人と異邦人が一つの神の民になるということであるとエンズは考える。…
 
パウロは、ユダヤ人も異邦人も罪と死に悩まされていることを「アダム」で象徴し。ユダヤ人も異邦人も同じ救い主イエス・キリストによって罪と死から解放さ一つの民とされると教えているのだとする。
                                (引用終わり)
 
 エンズの結論は、キリストの贖いに帰結しているという点で一定の安全性を保っているものの、以下に挙げるエンズのアダム論がもたらす影響を考慮するなら、「キリスト目的的アプローチ」には問題があると言わざるを得ません。
 
 
エンズのアダム論がもたらす影響―福音の喪失
 
 引き続き「聖書信仰とその諸問題」から抜粋します(P145P146)。
 
第一に、エンズはアダムの歴史性を否定し、アダムの罪の転嫁(imputation of Adamus sin)を認めないが、すなわちこれはキリストの義の転嫁(imputation of Christrighteousness)をも否定することになる。…
 
第二に、歴史的・個人的アダムの存在とその罪の転嫁を認めないエンズの概念は、キリストの十字架の意味合いを変化させてしまう。罪の転嫁が存在しなければ、キリストが十字架で身代わりとなって刑罰を受けたこと(penal substitution)も否定せざるを得なくなる。その結果、キリストの十字架は裁きとは無縁となり、十字架と復活は単にキリストが死に打ち勝ったものであることを証明する出来事にすぎなくなるのである。
                                (引用終わり)
 
 上記の説明は第六まで続くのため、紙幅上、この2点のみで引用を終わります。しかし、この2点を考慮しただけでも、「キリスト目的的アプローチ」が問題のある解釈法であることはわかります。
 
 
主イエスの全知性を否定
 
 さて、エンズがアダムの歴史性を否定するのは、彼が進化論を信じていることが原因です。アダムの歴史性に限らず、創造論そのものをエンズは否定しているのです。
 
 以下に、エンズの別のブログ記事から抄訳します。
 
最近私は、改めて幾つかのことを自問自答してみた。…
 
ピート、どうして君は進化論が正しいと思うんだい?
 
…思うに進化論は、科学が正しく理解している事柄の一つである。…なぜなら進化論は、科学界における明白な結論だからだ。その科学界には、その分野で訓練を受けたクリスチャンたちも存在する。
 
なら、聖書についてはどう考える? 創世記には、このことについて言い分があるだろ?
 
端的に言えば、答えはノーだ。…創世記の物語は2500年から3000年前に書かれたもので、明らかに旧態依然の文化的分類方法を反映している。
 
今日われわれが、微積分学、光学望遠鏡や電波望遠鏡、ゲノム科学、また生物人類学や文化人類学によって答えることができる疑問に対して、創世記やその他の如何なる青銅器時代鉄器時代の文献が答えを出すことを、私は期待していない。
 
でも君は、聖書が神の言葉であることを忘れてるんじゃないか? なぜ科学のほうが聖書に勝っていると決めて掛かってるんだい?
 
いや、何も忘れてなどいないし、何かを決めつけたり、自分でも気づかないほど深い思い込みによってこう言っているわけでもない。これは、ぼくが行きついた結論なんだ。
 
それでも、投げ掛けられた疑問に答えるとすれば、「霊感」や「啓示」という用語の意味合いを真剣に受け取ることに対して、不快感を感じるかだらだ。…
 
聖書は3つの古代言語で書かれており、筆者たちの「文化的時代背景」をあからさまに反映している。霊感を受け、啓示によって書かれた聖書の概念であろうとも、存立しつづけるには、当時の時代背景の影響を受けているという事実を避けることなく、向き合う必要がある。
 
聖書は、古代のやり方で物事に接していた古代の人たちの「言語」を使っている。だから、万物創世や人類の起源に関して聖書が記録していることは、聖書筆者たちの文化的背景に反する形で理解する必要があるんだ。(下線はブログ主)
 
でも、イエスは、そのすべてを否定していないだろうか? つまり、彼はアダムについて語っているし、創世記を文字通りに受け取っているように見える。君は科学よりもイエスに従うべきだと思わないのか?
 
今ぼくが聖書に関して述べたことは、イエスのためでもあるんだ。
 
エスの言葉が進化論の問題を解決してくれると期待するなら、(イエスの)受肉の意味を十分理解していないことになる。C・S・ルイスの言葉を借りるなら、そう期待するなら、受肉の教理をまったく不愉快で、「不敬」なものにすることになる。その点は、クリスチャンであっても変わらない。
 
受肉は、イエスが如何なる形でも人間性を帯びることがなかったという考えを完全に否定する。それはとりわけ、知識においてはイエスも当時の人々と同じように制限されていたことを意味する。
 
こんなことを言うと不敬に聞こえたり、不快に思うかもしれないが、受肉するということはそういうことだ。イエスは全知の存在ではなかった。だから、からし種の大きさや精神病、宇宙の進化や生物学的進化に関して、権威ある言葉を語れなかった。イエスは1世紀のユダヤ人だっだから、その一人として物事を考えたのだ。…
                              
引用元:
 
 
●あとがき
 
 念のために言いますが、エンズはリベラルではなく、福音主義神学者です。自身の聖書観について、次のように述べています。
 
the Bible as it is is without error because the Bible as it is is Gods Word.
聖書は、ありのままにおいて誤りがない。聖書は、ありのままで神の言葉だからだ
                 
                (a time to tear down A Time to Build Upより)
 
 しかし、これまで見てきたとおり、エンズは事実上、聖書には数多くの誤りがあると考えています。
 
 ほんの一例ですが、次のような主イエスの言葉は、主ご自身が創造論者であることを示しています。
 
創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。マルコ106
 
その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで…。マルコ1319
 
 しかしエンズに言わせれば、主イエスは「知識において制限されていた」から、このような間違いを信じ、語っていたことになります。
 
 一方で、聖書は神の言葉で誤りがないと言っておきながら、もう一方では、イエスでさえ間違っていたと主張するエンズは、その神学が正しいかどうかを問う以前に、知的に正直でないと言えます。

 そういう意味で、彼の論理には自己矛盾があり、当てにできないと言えるでしょう。
「キリスト目的的」聖書解釈や、第二神殿時代のユダヤ人の聖書に関する主張も然りです。

 そもそも、1世紀のユダヤ人信者そのものが、エンズの聖書解釈法を否定しています。
 
信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。ヘブル113
 
 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。116
 
 エンズのような信仰の破船に遭いたくない人は、彼のような聖書解釈を採用しないほうが良いでしょう。
 
 エンズはハバード大卒で、元ウエストミンスター神学校の旧約学教授です。エリート中のエリートで、頭のよい人物であることは誰一人疑わないでしょう。
 
 しかし、キリスト目的的アプローチや第二神殿時代のユダヤ人と同じ聖書解釈ができなければ、聖書の基本的なことが理解できないというのであれば、人類のうちのどれほどの人が、聖書を満足に理解できるというのでしょうか?
 
 キリスト目的的アプローチがどれほど優れた聖書解釈法であるとしても、普通に聖書を読んで理解できることと矛盾するのであれば、正しいアプローチとは言えないのではないでしょうか。
 
 次に挙げる聖句は、聖書信仰とその実践には、必ずしも高度な神学的知識や特別な聖書解釈法が必要ないことを教えていないでしょうか。
 
使徒4:13 
彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。
 
おわり