マルコ4:38の真の意味
記事の中でマウンス先生は、マルコ4:38で使われているオウという否定語(~ない)の解説をされています。
マルコ4:38
ここでオウが使われていることからわかるのは、弟子たちはイエスが心配していることを認識していたということだと先生は言っておられます。
弟子たちが投げ掛けた問い掛けはいわゆる「否定疑問文」で、イエスが弟子たちを心配してくださっていることを知った上での問い掛けだというのです。
心配してくださっているのに眠っておられるのはどういうことのなだろう?と、信仰と目に見える現実のギャップから生じた問い掛けだというのです。
「肯定的な回答が期待されている用例」として、マルコ4:38が挙げられていました。
実のところ、主イエスは弟子たちを心配しておられたのです。
弟子たちはそのこと(主イエスのそのようなご性質)を知っていました。
主はその上で彼らの信仰を試されたのです。
It wasn’t a question based only on fear. Sure, they were afraid, but what was really bothering them was that they had a certain view of Jesus and his care for them, and his sleeping in the midst of the storm did not line up with their faith in him. So they didn’t ask a totally open-ended question. Their question shows a budding faith, a faith in his care for them, a faith that was being tested by the storm.
これは恐れのみに基づく問い掛けではなかった。確かに弟子たちは恐れていたが、彼らが真に戸惑っていたのは、主は自分たちを心配しておられるという思いがあったからだ。だが主は嵐の只中で眠っておられたので、それが弟子たちの信仰と噛み合わなかった。それゆえ彼らは断定的な問い掛けはしなかった。この問い掛けが示すものは、成長過程にある信仰である。主は自分たちを心配しておられるという信仰である。嵐の中で試されていた信仰である。
私たちも弟子たちと同じように困難な状況や辛い出来事を経験します。
そのとき主は私たちを心配おられるのです。
その上で信仰の成長を願っておられることがこの箇所からわかります。
おわり