ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

限りなく黒に近い聖書釈義論

 
 前回の記事の第一の目的は、あくまでも情報の提供でした。

 そのために、ボックの釈義論を中心に記事を書きました。

 しかし今回は、聖書に照らして具体的に問題点を指摘したいと思います。

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 ある日本人神学者の方は、ブログの中で次のように論じておられます。 
 
パウロも同様に、ダマスコの途上で復活のキリストに出会うまでは、旧約聖書がイエスについて語っていることに気づくことはありませんでした。彼は詳細な聖書研究の結果イエスがキリストであるという結論に達したのではなく、まずキリストと出会う体験があり、十字架につけられたナザレのイエスが神の子であるという確信に達して後に初めて、旧約聖書をキリスト論的に読むことができるようになりました。そのようなキリスト論的再解釈に基づいて、彼はイエスがキリストであることを旧約聖書から論証するようになったのです。
 
 
 
 この記述には、大きな誤りがあります。
 
 パウロ旧約聖書エスについて語っていることに気づくこと」ができなかった理由として、
 
 パウロには当初、「キリストと出会う体験」がなく、ゆえに「十字架につけられたナザレのイエスが神の子であるという確信」に達していかなったからだとされています。
 
 しかし、この理由付けは、聖書の説明と食い違っています。
 
 正しくは、パウロがまだ救われておらず、ゆえに使徒に対する聖霊の霊感も与えられておらず、従って旧約聖書に関する聖霊の照明もなかったからです。
 
 このことについては、次の箇所で明らかになります。

 
エペソ3:35 
先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。
4 それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。
5 この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。
 
 
 5節の「聖なる使徒たちや預言者たち」という表現を原文で見ますと、一つの冠詞によって全体がくくられています。

 従ってこれは不特定多数の使徒預言者のことではなく、パウロと同時代に活躍していた初代の使徒預言者を指していることになります。
 
 つまりキリストの奥義は、御霊の啓示によってパウロを初めとする初代の使徒預言者らに知らされたのです。
 
 このことからわかるのは、パウロ旧約聖書を正確に理解できるようになったのは、十字架後にイエスがメシアであったことが判明したからだけではないということです。
 
 人間の理性による聖書理解を超えた、聖霊の啓示による神的理解がもたらされたのです。

 そのような啓示があったからこそ、パウロは無謬・無誤の書簡を書くことが可能になり、教会の土台となる教えを説くこともできました(エペソ2:20)。
 
 従って、初代の使徒預言者ではない私たちは、彼らと「同レベルの」啓示を受けることはできません。
 
 よって、神学者の方も以下に言われているとおり、「霊感を受けていない私たちの解釈は使徒たちのそれとは違い、誤りを犯す可能性は常にあります。」

もちろん、これは現代の私たちの解釈が使徒たちと同レベルの正確さを持っているということではありません。霊感を受けていない私たちの解釈は使徒たちのそれとは違い、誤りを犯す可能性は常にありますしかし、一般的原則としては使徒たちの解釈法に倣うことができるし、またそうすべきではないかと思うのです。

 
 
 神学者の方は、使徒たちの解釈法に倣うことができる」とおっしゃっていますが、

 エペソの箇所が示すとおり、初代の使徒と同レベルの啓示、つまり、無謬にして無誤な聖書理解は、現代の私たちには完全に不可能です。

 それは、現代の私たちに聖書が書けないこととまったく同じ理屈です。

 如何なる理由付けをしようとも、この原理を変えることはできません。

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 ブログを読み進んでいきますと、神学者の方は最終的に次のように結論づけます。 
 
パウロは旧約テクストの「オリジナルな意味」に縛られることなく、御霊による自由の中で聖書を解釈したというのです。これはもちろん何の制約も受けない恣意的な解釈ということではなく、キリストにおける神のわざによって聖書に与えられた新しい統一的ナラティヴに照らして聖書を読むことができるようになったということです。そしてそのような解釈はまた、聖書を通して語られる聖霊の声の微妙なニュアンスに、教会共同体として耳を傾けることによってなされていきました。新約聖書はそのようなダイナミックな聖書との関わりを証ししています。21世紀に生きる私たちも、使徒たちのこのような柔軟で自由な聖書観に学ぶべきではないでしょうか。
 
 
 
 神学者の方は、パウロは「聖書に与えられた新しい統一的ナラティヴに照らして聖書を読むことができるようになった」と言われます。
 
 しかし、その読み方はあくまでも人間の理性や知性、そして現代に許容される範囲の御霊の働きに依るものです。
 
 繰り返しになりますが、パウロ自身が語る理由はそういうものではありません。
 
 パウロの聖書理解は、初代の使徒預言者に限定された御霊の啓示による理解です。

 そのような理解を通して与えられた情報こそ、パウロが言うところの「キリストの奥義」なのです。
 
 これは人間の理性や知性を超えた、御霊の啓示による神的理解の所産です。
 
 神学者の方が提唱される読み方と、初代の使徒預言者に限定された聖書理解。
 
 両者の間には、現代の私たちには超えられない圧倒的な違いがあります。
 
 従って、努力次第では、あたかも使徒たちと同じような聖書理解が可能であるかのような物言いは、聖書信仰者として極めて不適切です。
 
 聖書に反したこのような物言いを、私たちは警戒しなければなりません。
 
 終わり