限りなく黒に近い聖書釈義論
そのために、ボックの釈義論を中心に記事を書きました。
しかし今回は、聖書に照らして具体的に問題点を指摘したいと思います。
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ある日本人神学者の方は、ブログの中で次のように論じておられます。
パウロも同様に、ダマスコの途上で復活のキリストに出会うまでは、旧約聖書がイエスについて語っていることに気づくことはありませんでした。彼は詳細な聖書研究の結果イエスがキリストであるという結論に達したのではなく、まずキリストと出会う体験があり、十字架につけられたナザレのイエスが神の子であるという確信に達して後に初めて、旧約聖書をキリスト論的に読むことができるようになりました。そのようなキリスト論的再解釈に基づいて、彼はイエスがキリストであることを旧約聖書から論証するようになったのです。
この記述には、大きな誤りがあります。
しかし、この理由付けは、聖書の説明と食い違っています。
このことについては、次の箇所で明らかになります。
エペソ3:3~5
3 先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。
4 それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。
人間の理性による聖書理解を超えた、聖霊の啓示による神的理解がもたらされたのです。
そのような啓示があったからこそ、パウロは無謬・無誤の書簡を書くことが可能になり、教会の土台となる教えを説くこともできました(エペソ2:20)。
エペソの箇所が示すとおり、初代の使徒と同レベルの啓示、つまり、無謬にして無誤な聖書理解は、現代の私たちには完全に不可能です。
それは、現代の私たちに聖書が書けないこととまったく同じ理屈です。
如何なる理由付けをしようとも、この原理を変えることはできません。
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ブログを読み進んでいきますと、神学者の方は最終的に次のように結論づけます。
パウロは旧約テクストの「オリジナルな意味」に縛られることなく、御霊による自由の中で聖書を解釈したというのです。これはもちろん何の制約も受けない恣意的な解釈ということではなく、キリストにおける神のわざによって聖書に与えられた新しい統一的ナラティヴに照らして聖書を読むことができるようになったということです。そしてそのような解釈はまた、聖書を通して語られる聖霊の声の微妙なニュアンスに、教会共同体として耳を傾けることによってなされていきました。新約聖書はそのようなダイナミックな聖書との関わりを証ししています。21世紀に生きる私たちも、使徒たちのこのような柔軟で自由な聖書観に学ぶべきではないでしょうか。
しかし、その読み方はあくまでも人間の理性や知性、そして現代に許容される範囲の御霊の働きに依るものです。
繰り返しになりますが、パウロ自身が語る理由はそういうものではありません。
そのような理解を通して与えられた情報こそ、パウロが言うところの「キリストの奥義」なのです。
これは人間の理性や知性を超えた、御霊の啓示による神的理解の所産です。
両者の間には、現代の私たちには超えられない圧倒的な違いがあります。
従って、努力次第では、あたかも使徒たちと同じような聖書理解が可能であるかのような物言いは、聖書信仰者として極めて不適切です。
聖書に反したこのような物言いを、私たちは警戒しなければなりません。
終わり