ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

新約聖書における旧約聖書引用に関する聖書釈義論

 
 ある日本人神学者が、使徒たちは聖書をどう読んだか(4)というブログ記事で、聖書釈義について論じています。
 
 その神学者の方は、従来、福音派がとってきた「歴史的文法的解釈」に対する疑問を呈しています。
 
 その一方で、米国福音主義神学界の異端児ピーター・エンズが提唱する「キリスト目的的」解釈を提案しています。
 
 一連のブログ記事を読むだけですと、二者択一を迫られるかのような錯覚に陥ります。
 
 しかし実際には、その方が取り上げていない第三の釈義法があります。
 
 その釈義法は、その方が紹介している「新約聖書中の旧約聖書引用に関する3つの見解」(英語)という本に書かれています。
 
「3つの見解」とあるとおり、その方が触れていないもう一つの見解があるわけです。
 
 それに触れないことは公正を欠いていますので、当ブログでその第三の釈義法を取り上げようと思います。
 
 尚、「聖書信仰と諸問題」(P178~P181)に上記の神学書の要約が記載されていますので、そちらを抜粋いたします。
 
 
ダレル・L・ボック
 
 ボックの付けるタイトルは、Single Meaning, Multiple Contexts and Referents: The New Testaments Legitimate, Accurate, and Multifaceted Use of the Oldである。
 
新約聖書著者による旧約聖書引用  
 そのタイトルにSingle Meaning”と付くことによって、ボックの立場はもちろんエンズの立場とは異なるということがわかる。カイザーとは類似点もあれば相違点もある。類似点は、ボックが新約聖書著者に表された旧約聖書のことばの意味は旧約聖書のオリジナルな意味と切り離されたものではないと考えている点である。それゆえに”Single Meaning”というタイトルが付く。
 しかしカイザーと異なるのは次のような点である。旧約聖書著者が神に示されたことを記す時、彼らはその書くことすべてを完全に理解したのではなかった。それはペテロの手紙第一11012節やダニエル書12513節が示すとおりでありである。つまり、人間の著者がことばに著す時にそのすべてを理解していなかったとしても、聖書の究極的な著者である神が意図したものは「より完全な意味(sensus plenuior)」であった。ゆえに、神は最終的に、一つの文脈における対象だけではなく、いくつかの時間枠を超えた文脈における対象を示すことができるのだと言う。そして、それが歴史における予型論的パターンの存在のゆえに可能になると言う。ゆえに、議論のタイトルに”Single Meaning, Multiple Contexts and Referents”と付く。
 そのような意味においては、ボックはsensus plenuior(より完全な意味)を全く否定することはしない。そもそもsensus plenuiorという理解はレイモンド・ブラウンによる次のような定義が発端として議論がなされてきた。
 
Sensus plenuiorとは、人間の著者によって明確には意図されてはいないが、神によって意図された付加的(additional)でより深い(deeper)意味を指す。それは、後のさらなる啓示や啓示の理解の進展の観点から学んだ時に、聖書のテキストのことば(もしくはテキストの一群)、また一書全体においてさえ)に見られるものである。」
 
 しかし、現在もその定義はあいまいで、ある者たちはこの定義に満足しない。ボックは著者としての人間の意図と神の意図の「違い」を説明する目的で使うsensus plenuiorではなく、あくまでも著者としての人間が語ったことと神が彼を通してさらに語ることには、人間としての著者がオリジナルなセッティングにおいて語ったという意味において「関連がる」と考える。そのような意味においてはエンズもボックも大きな定義におけるsensus plenuiorの概念の中に含まれる。しかし、その際の留意点はその定義の仕方である。ボックの考えるようなsensus plenuiorの理解に対してはダグラス・J・ムーなど他の福音主義者たちからも支持を得る。神は歴史を通してその計画を徐々に明らかにされる。つまり、神の計画が表された先のテキストにおける意味は、後の出来事とときすとにおいてそれがさらに明瞭になるのである。
 そのようなことを理解するためには、ボックは、キスとの歴史的・釈義的読み方(historical-exegetical reading)とともに、神学的・正典的読み方(theological-canonical reading
が必要であると言う。前者はオリジナルなセッティングにおける著者の意図を明らかにしようとするものであり、後者は次の、後の啓示という光の中でテキストを読もうとするものである。しかし、ボックは同時に、釈義とは神学的であるし、神学は釈義的である言う。これは新約聖書における旧約聖書引用を理解する際にも上記の二つのアプローチは実は自然なものであり、このことによって単に先行テキストから後続テキストへの一方的なprospective(先→後)な方向性だけでなく、逆のreprospective(後→先)な方向性による理解も必要であることを意味しているように思われる。
 
②マタイの福音書215節におけるホセア書111節の引用理解
 非常に簡単な説明しか示さないが、この引用の場合もボックは予型論的に考察する。ホセア書11章は1節において過去の出来事を語っているが、811節にはイスラエルへの将来の約束を含む。終わりにおける救いが最初の救いと類似しているという神学的パターンをホセア書とマタイの福音書に見ることができると言うのである。

                                (引用終わり)
 
●あとがき
 
聖書信仰と諸問題」の著者で、このテーマの執筆を担当された三浦 譲先生は、同書P183で次のように述べておられます。
 
 カイザーとエンズの両極端な立場を扱うゆえか、山崎ランサム氏の論文ではボックの立場が検討されずに終わる。しかし、カイザーの立場の理解に困難が伴うとしても、すぐにエンズの立場に跳躍する必要はないのではないかと思う。… 
                               (引用終わり)
              ***

 私も同感です。
 
 エンズの解釈法は、旧約聖書新約聖書の連続性を否定する解釈法です。
 
 つまりピーター・エンズは、旧約聖書の被引用箇所と新約聖書筆者による引用の間には、意味の繋がりがまったくないと言っているのです。

 言い換えるなら、例えばマタイが、ホセア書の引用箇所の文脈的意味を無視して福音書に引用したと言うことになります。

 しかしそれでは、ホセアの言葉が成就したことにはなりません。

 よって、ホセア書の言葉を引用した意味もないことになります。
 
 山崎ランサム氏は、そのような暴論を後押ししているのです。
 
 これは、新約聖書が神の霊感によって書かれたことの否定に扉を開くものです。
 
 実際、ピーター・エンズは進化論を肯定しています。
 
 そのような立場をとる神学者の解釈法を支持すべきではありません。
 
 私がボックの解釈法を記事にしたのは、そういったリベラルな方向に聖書解釈が逸らされることに反対だからです。
 
 同時に、こういった良からぬ神学的論述に対し、日本のクリスチャンに警戒してもうためです。
 
 山崎ランサム氏のブログは面白いので、私も嫌いではありません。

 また、山崎ランサム氏が、豊富な聖書知識を持っておられることも事実です。
 
 しかし、こういった良からぬ見解を促進する議論には同意しかねます。
 
 終わり