ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

良いディスカッション


残念な批判記事」にまつわる一連のやり取りを通して、良いディスカッションが生まれていると思います。
 
 皆さんが投げ掛けてくる疑問は、「聖書の現象」に通じるものがあると思います。
 
 例えば、皆さんのコメントの中で重複してたものの中に、四福音書の内容の違いがありました。
 
 聖霊が十二弟子に「すべての真理」を啓示したのなら、どうして福音書の内容は違っているのか、
 
 また、福音書に主イエスの教えのすべてが書かれていないのはどうしてか、という疑問です。
 
 このような疑問が生まれてくる原因の一つは、私たちが「すべての真理」という字面だけを捉えてるからだと思います。
 
 
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
 
 
 しかし、すべての聖句は文脈の中で理解する必要があります。
 
 主イエスがこの箇所の言葉を語られたとき、自然科学を通して現代に知られているすべての真理という意味で語っていないことは皆さんも了解するところでしょう。
 
 聖霊の啓示によって、十二弟子は全知を有する天才になったわけではありません。
 
 つまり、この箇所の「すべての真理」という表現には文脈的な制限があるのです。
 
 では、その文脈とは何でしょうか?
 
 主イエスは公生涯の最後の時間にこの言葉を語っているのですから、主イエスが公生涯で十二弟子に教えた「すべての真理」と理解すべきでしょう。
 
 要するにこの箇所の「すべての真理」は、ヨハネ1426の「わたしがあなたがたに話したすべてのこと」と同じことを指しているのです。
 
 
ヨハネ14:26
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
 
 
 もう一つ重複していたのは、皆さんが「思い起こさせてくださいます」と「書かせてくださいます」を混同していることです。
 
 主イエスは、「わたしがあなたがたに話したすべてのことを福音書に書かせてくださいます」とは言っていません
 
 弟子たちは、思い起こさせられた事柄の中から、自分が書くべきだと判断したことを、自分の文書スタイルで書いたと考えるべきです。

 ですから、ミクさんのようにヨハネの箇所がすべてのクリスチャンに適用できると考えるのなら、

 現代の私たちも自分の個性やスタイルに応じて、聖書(の一部)を書けるという話になります。
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 また、1コリント13:9の「私たちの知っているところは一部分でありという部分を引用したコメントは、ある意味でとても良い質問だと思います。
 
 
1コリント13:9
というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
 
 
 一見すると、ヨハネの箇所の「すべての真理」や「すべてのこと」と矛盾するように見えます。
 
 しかし、1コリントのパウロの言葉とヨハネの箇所の主イエスの言葉とでは、文脈が違います。
 
 主イエスの言葉のほうは、公生涯という限られた文脈で語られている一方、パウロの言葉はもっと広い文脈です。
 
 その理由を説明します。
 
 1コリント13:9の「一部分」というのは、10節の「完全なもの」との対比で語られています。
 
 この「完全なもの」というのは、終末にもたらされる完全な状態に回復した世界を指しています。
 
 ですから、1コリントの箇所の「一部分」には、文脈的な制限がありません。
 
 一方、ヨハネの箇所は公生涯という限られた文脈です。
 
 このように、1コリントとヨハネの箇所の文脈は違いますから、1コリントでヨハネの箇所を解釈すると、論理のすり替えが生じて正しい結論は出てきません。
 
 ミクさんは、再び同じ過ちを繰り返しているわけです。
 
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 ミクさんのコメントの内容が、懐疑論者が聖書を攻撃する際の言い分と似ているのは、ヨハネの箇所を十二弟子が聖書を書けた根拠として認めないからです。                
 
 しかし、ゴット・クエスチョンも聖書の権威を根拠づける箇所として、ヨハネ14:26と16:13を挙げて説明しています。
 
 
使徒たちは真理の御霊を約束されました。御霊はキリストのおっしゃったことを使徒たちに思い出させ、(ヨハネ14:26)すべての真理に導くという約束でした(ヨハネ16:13)。
 
キリストの昇天の後、使徒たちは彼らの業とメッセージを確証するために超自然的賜物を頂きました(使徒伝2:4)。
 
神の家族は「使徒預言者という土台の上に建てられて」いるのです(エペソ2:20 )。
 
使徒たちの特別な任命を考えると、教会が使徒であることを正典であることの主なテストとしたことは了解できます。
 
それで、マタイの福音書は正典と認められました。(使徒によって書かれたので)マルコの福音書も、マルコが使徒ペテロと親しい関係があったので、受け入れられました。  
 
                               (強調はダビデ
 
 ミクさんが聖書の権威を擁護する立場をとっているのなら、考えを変えたほうがいいと思います。
 
 終わり