ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

聖霊のバプテスマ その2

「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所からを着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」ルカ24:49

エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊バプテスマを受けるからです。・・・しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたはを受けます。そして・・・わたしの証人となります。」使徒1:5~8

前回の記事では、聖霊バプテスマには救いという意味があることを学びました。
 
今回はまず、カリスマ・ペンテコステ派で言われている聖霊バプテスマについて考えてみたいと思います。
 
そのあとで福音派で信じられている聖霊バプテスマについて学びます。

●力の授与
上記の2つの聖書箇所は、言葉遣いや内容が酷似しています。

明らかにこの2箇所は、同じ事柄について述べたものであると思われます。

これらの箇所を比較して、「聖霊バプテスマ」について考えてみましょう。

2箇所の共通点は「力」です。
 
聖霊バプテスマ」には、信者に「力」を与えるという目的があることがわかります。

また使徒1:8から、信者に「力」を与える目的は、信者を「わたし(イエス)の証人」にすることであることがわかります。

これらの特徴を、一つの文にまとめてみましょう。

聖霊バプテスマとは、昇天されたキリストが、信者をキリストの証人にするために、聖霊によって神の力を授けることです。

エスは昇天する前に大宣教命令を弟子たちに与えましたが、すぐに実行せよとは言わずに、「力を着せられるまで」待っているように命じました。

聖霊バプテスマ」こそ、その「力」を与えるための方法だったのです。
 
●救いとの時間的差異
また聖霊バプテスマは、救いを受けてから時間が経過したのちに受ける場合もあります。
 
使徒8章を見ますと、ピリポの伝道によって何にかのサマリヤ人がイエスを信じ救われました(12節)。
 
そして彼らは、イエスの御名によって水の洗礼を受けました(12節,16節)。
 
その知らせをエルサレム使徒たちが聞き、サマリヤに向かいました。
 
当時は徒歩で旅をしたはずですから、サマリヤの知らせがエルサレムに届き、それを聞いたヨハネとペテロがエルサレムからサマリヤに行くまで、2,3日はかったかもしれません。
 
2人がサマリヤ人の信者たちに会って聖霊を受けるように祈り、手を置くと、サマリヤの信者たちは聖霊バプテスマを受けました(17節)。
 
また16節の内容から、ただイエスを信じたり、水の洗礼を受けただけでは、聖霊バプテスマを受けられない場合があることがわかります。
 
このように聖霊の満たしとしての聖霊バプテスマは、救いとは別に起こることがあります。

カリスマ・ペンテコステ派における聖霊バプテスマの概念は、上記の内容が核となっています。

福音派の定義
一方、福音派の神学では、Ⅰコリント12:13に基づいて、聖霊バプテスマとは救いと同時に起こるもので、信者をキリスト及びキリストのからだと一体化するものであると定義しています。

まずはⅠコリント12:13を解釈してみましょう。

「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」Ⅰコリント12:13

上記の聖句の意味を理解するには、「一つの御霊」というフレーズの意味を捉える必要があります。

原典を見てみますと、「霊」を意味する「プニューマ」の前に、「一つ」を意味する「ヘイス」という形容詞がついています。

この「ヘイス プニューマ/一つの霊」というフレーズは、パウロの書簡に何回か出てきます。

「私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。」エペソ2:18

「からだは一つ、御霊は一つです。」エペソ4:4

*上記の聖句は、原典では「一つのからだ、一つの霊」となっています。

「あなたがたは霊を一つにして、しっかりと立ち・・・」ピリピ1:27

*上記の部分は、原典では「あなたがたが一つの霊の内にしっかりと立つために、私は奮闘しており」と書かれています。

このように、「ヘイス プニューマ/一つの霊」というフレーズが使われている箇所のテーマは、すべて霊的一致に関連しています。
 
このフレーズは、霊的な一致を意味する表現なのです。
 
この原則をもとにⅠコリント12:13も解釈しなければなりません。

するとⅠコリント12:13の意味は、次のようになります。

「すべての信者は、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つの公同の教会となるためにバプテスマされ、全員が一つの霊を飲まされた。」

つまりパウロは、すべての信者は救われることによってキリストと一体化し、他の信者とも一体化すると述べているのです。

●問題点
しかしこの記事の前半で書きましたように、聖霊バプテスマには、すでに救われた信者をキリストの証人とするために力を与えるという側面もあります。

ルカ24:49や使徒1:5でイエスが十二弟子たちに「聖霊バプテスマ」の話をする以前から、彼らはすでにイエスをはっきりと信じて救われていました(マタイ18:16~18、ヨハネ6:44)。

救われていたけれども、イエスは彼らに「聖霊バプテスマ」を受けさせると言ったのです(ルカ24:49、使徒1:5)。

そして実際、使徒2章で「聖霊バプテスマ」の約束が成就しました(2:1~4)。

ここで注意すべきことは、使徒2:1~4で起こったことは「聖霊の満たし」だということです。

なぜなら2:4に、「みなが聖霊で満たされ」と書かれているからです。
 
つまり聖霊バプテスマとは、一番最初に起こる聖霊の満たしのことなのです。
 
聖霊バプテスマを受けたことによって、ペテロや他の弟子たちは信仰が大胆になりました。
 
また聖霊による力のわざが彼らを通して行われました。
 
彼らはイエスがルカ24章や使徒1:5で言っていたように、力を受けたのです。

この力の授与という側面が、福音派聖霊バプテスマの定義に完全に抜け落ちています。

また福音派の定義のもう一つの問題点は、聖霊バプテスマは救いと同時でなければならないということです。

ところが、聖霊の満たしは救いではありません。

救いは一度限りの出来事ですが、満たしは何度でも起こります。

聖霊の満たしは、信者が神のみこころを行うために神が力を授ける行為であって、救いとは別のものです。

ですから、救われたたとき以外にも聖霊の満たしとしての聖霊バプテスマは起こります(使徒2:1~4、使徒8:14~17)。

逆もまた真なりです。

カリスマ・ペンテコステ派聖霊バプテスマの概念には、救いという意味の聖霊バプテスマが抜け落ちています。
 
また信者が享受する霊的一致という意味の聖霊バプテスマの概念が完全に抜け落ちていて、力の授与のほうしか理解していません。

●まとめ
このように、2者の見解は、それぞれ不十分です。

聖書で述べられている聖霊バプテスマの意味が広いことを、私たちは理解しなければなりません。
 
つづく