礼典は誰が行うべきか?
以下のようなご質問がありましたので、お答えしたいと思います。
原則的には所謂(いわゆる)聖職者が礼典を執り行うべきかと思いますが、本来はキリスト信者ならば誰でも行なう事が出来るのではないでしょうか? どうなんでしょうか?
答え:はい、おっしゃるとおりだと思います。
ただこれで終わらせると、何を根拠にそう答えているのかが不明ですので、説明しようと思います。
●礼典とは?
●洗礼
洗礼は誰が行うべきか、
聖書は、洗礼を授ける資格が誰にあると教えているのか、
その辺のことについて考えたいと思います。
マタイ28:19~20
この命令を直接的に受けたのは十二弟子ですが、彼らは教会の代表として受けたのであって、この命令はすべてのクリスチャンに語られています。
(一般的にそう解釈されています)
すべてのクリスチャンが、この大宣教命令を実行すべきであるなら、すべてのクリスチャンに、洗礼を授ける権限が与えられているということです。
ところが、某教団にはこのような規則があります。
どうしてこのような結論に至るかについては、聖書に基づいた説明は書かれていません。
私は、この結論は聖書の教えの枠を超えていると思います。
1行目にこう書かれています。
The Bible does not specifically address this question.
聖書は、具体的にこの疑問に答えていない。
●聖書の実例
ただし聖書中の実例を見ると、
肩書のある働き人が、洗礼を授けている実例はあります。
そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
具体的には書かれていませんが、
このとき3000人に洗礼を授けたのが十二弟子だった可能性は十分あると思います。
また次の箇所では、伝道者ピリポが洗礼を授けています。
そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。
しかしパウロは、逆にこう言っています。
1コリント1:17
キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。
●洗礼の主体
1ペテロ3:21
この箇所でペテロが教えているのは、
洗礼の主体は、受ける本人であるということです。
本人が神の前に、誠実な思いで信仰を告白することが洗礼の意味だと言っています。
逆にいえば、重要なのは誰が授けるかではなく、受ける側の信仰姿勢だということです。
●聖餐式
そして愛餐は、フルミール(完全な食事)でした。
最後の晩餐は、完全な過ぎ越しの食事であった。初代教会は、食事を祝うという伝統を守っていた。その食事会では、パンと葡萄酒は食事の一部にすぎなかった。聖餐式は完全な食事であり、「愛餐」とも呼ばれていた。
そしてこの愛餐は、「日ごとに」信者の「家々で」持たれていました。
使徒2:46
また、日ごとに一致して神殿参りに熱心であり、家々ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、
誰が愛餐(聖餐式)を導いていたかは書いてありませんが、
普通の食事が愛餐であり、信者の「家々で」行われていたのですから、
教役者が導いていたのではなく、一家の家長の可能性が高いと思います。
●まとめ
現代の教会は、大なり小なり、聖書にはない形式が取り込まれていると言えます。
本来クリスチャンなら誰でも果たさせる役割の多くが、
こんにち的な意味での「牧師」に、
集中しすぎている傾向があるのではないでしょうか。
1世紀の教会では、すべての信者が、集会の中で何らかの奉仕を担っていました。
1コリント14:26(岩波翻訳委員会訳)
兄弟たちよ、それでは以上のことは何〔を意味するの〕か。あなたがたが共に集まる時、それぞれは賛美歌を担当し、教えを担当し、啓示を担当し、異言を担当し、解釈を担当する。〔その際、〕それらすべてが〔互いを〕建てることをめざすものとなるようにしなさい。
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