ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

「エクレシア」かくあるべし! ~マウンスの教会談義~


 
教科書の著者マウンスが、ブログの中で聖書的な教会像について述べているので抄訳します。
 

●変質した教会観
 
神学校で行われた討論会に、はじめて参加したときのことです。神学生たちの間で、聖餐式を神学校で行ってもよいかどうかについて、議論が盛り上がりました。
 
すると教授のひとりが言いました。「もちろん駄目だ。ここは教会ではない。聖餐式は、教会だけが執り行えるものだ」と。
 
私は愕然としました。聖書的な根拠もなしに、教授がそのような主張をしたからです。
 
教会とは何かと尋ねられた教授陣は、プロテスタントの伝統的な答えを提示しました。教会とは福音が正しく説かれているところで、典礼が適切に執り行われ、教会としての規律が守られているところだと。
 
もちろんこの定義は聖書本文とは無関係で、宗教改革者たちがローマカトリックとの差別化のために取り決めたものです。
 
 
●エクレシアとは
 
ἐκκλησίαエクレスィーアとは、この世から「呼び出され」、王なるイエスに属するようになったクリスチャンの共同体のことです。
 
建物としては一切述べられておらず、必ず主の民として認識されています(例:ピレモン2コロサイ415。真の教会とは、神の国の可視的顕現です。
 
ところで、なぜ私がこの記事を書いたかというと、親しい友人が伝統的な教会で深く傷つけられてしまったからです。
 
「伝統的」と言った意味はこうです。それはレンガとモルタルでできた怪物で、自らを「教会」と名乗ってはいるものの、多くの場合、霊的商業施設以外の何物でもないからです。
 
その友人が、最近、キリスト教主義の短大に入学しました。彼女は大学の近くの、霊的商業施設には行きたくありませんでした。両親もそのことを了承していました。彼女は癒やされつつありましたが、それ以上傷つきたくなかったのです。
 
ところが短大の「権威者」が、「教会に行くべきだ」と言い張りました。「行けば痛みが和らぐ」と・・・。
 
この「権威者」の教会論は、ひどく間違っています。日曜の朝に行われるものが、必ずしも教会なわけではありません。またそれを必ずしも、教会と同等扱いすべきでもありません。教会とは、定期的かつ不定期に、クリスチャンたちがともに集まる共同体のことです。
 
互いに愛し合い、互いに気遣い、互いの重荷を負い合い、愛と良い行いのために励まし合い、罪を告白し合う共同体です。
 
綺麗な服を着た人たちが集まる大広間で、これらのことがどれほど実践されているでしょうか。聖書の教えを実践しない施設を、教会と呼べるでしょうか。
 
誤解しないでください。私は、人が互いを必要とし合っていることを理解しています。集会には定期的に集うべきです。それでこそ真の地域教会だと、私は考えています。私自身、伝統的な教会の説教者として長年奉仕しましたから。
 
しかし決して忘れてはならないのは、日曜の朝に行われるものが必ずしも教会ではないということです。
 
教会とは、定期的に福音を語り、聖書に書かれている「互いに~しなさい」を実践する共同体です。「呼び出された者たち」と呼ばれるその共同体は、孤独や痛みを解消する場でもあります。
 
反面、霊的商業施設はというと、ほんらい自分たちが仕えるべき人々を、混乱させてばかりいるのです。
 
 
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