「エクレシア」かくあるべし! ~マウンスの教会談義~
●変質した教会観
神学校で行われた討論会に、はじめて参加したときのことです。神学生たちの間で、聖餐式を神学校で行ってもよいかどうかについて、議論が盛り上がりました。
すると教授のひとりが言いました。「もちろん駄目だ。ここは教会ではない。聖餐式は、教会だけが執り行えるものだ」と。
私は愕然としました。聖書的な根拠もなしに、教授がそのような主張をしたからです。
●エクレシアとは
ところで、なぜ私がこの記事を書いたかというと、親しい友人が伝統的な教会で深く傷つけられてしまったからです。
「伝統的」と言った意味はこうです。それはレンガとモルタルでできた怪物で、自らを「教会」と名乗ってはいるものの、多くの場合、霊的商業施設以外の何物でもないからです。
その友人が、最近、キリスト教主義の短大に入学しました。彼女は大学の近くの、霊的商業施設には行きたくありませんでした。両親もそのことを了承していました。彼女は癒やされつつありましたが、それ以上傷つきたくなかったのです。
ところが短大の「権威者」が、「教会に行くべきだ」と言い張りました。「行けば痛みが和らぐ」と・・・。
この「権威者」の教会論は、ひどく間違っています。日曜の朝に行われるものが、必ずしも教会なわけではありません。またそれを必ずしも、教会と同等扱いすべきでもありません。教会とは、定期的かつ不定期に、クリスチャンたちがともに集まる共同体のことです。
互いに愛し合い、互いに気遣い、互いの重荷を負い合い、愛と良い行いのために励まし合い、罪を告白し合う共同体です。
綺麗な服を着た人たちが集まる大広間で、これらのことがどれほど実践されているでしょうか。聖書の教えを実践しない施設を、教会と呼べるでしょうか。
誤解しないでください。私は、人が互いを必要とし合っていることを理解しています。集会には定期的に集うべきです。それでこそ真の地域教会だと、私は考えています。私自身、伝統的な教会の説教者として長年奉仕しましたから。
しかし決して忘れてはならないのは、日曜の朝に行われるものが必ずしも教会ではないということです。
教会とは、定期的に福音を語り、聖書に書かれている「互いに~しなさい」を実践する共同体です。「呼び出された者たち」と呼ばれるその共同体は、孤独や痛みを解消する場でもあります。
反面、霊的商業施設はというと、ほんらい自分たちが仕えるべき人々を、混乱させてばかりいるのです。
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