ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

聖霊のバプテスマ その3

バプテスマという言葉のニュアンス

これまでの記事を通して、福音派とカリスマ・ペンテコステ派双方の立場から聖霊バプテスマを考えました。

どちらか片方の見地だけでは、聖書が述べているところの聖霊バプテスマの意味を完全にカバーすることはできません。

どちらも不完全です。

しかしそれぞれがまったく間違っているということでもありません。

双方を足すと、聖書が述べている聖霊バプテスマの意味になります。

要は、聖書が述べる聖霊バプテスマの意味する範囲が、それほど広いということです。

私たちが、「バプテスマ」という言葉の意味を理解するなら、聖書が聖霊バプテスマという言葉で、矛盾することなく広範な内容を表せることがわかるはずです。

●「バプテスマ」=一体化

バプテスマは、洗礼と訳されています。

しかし洗礼という表現だけでは、バプテスマの元になっているバプティゾーという動詞に含まれている意味を十分に伝えることができません。

やはり聖書全体から、この言葉にどういった霊的な意味があるかを捉える必要があると思います。

そのためには、ギリシャ語としてのバプティゾーにどのような意味があるかを捉える必要があります。

BC200年頃に、外科医また詩人として活動していたNicander/ニカンダーという人がいました。

彼が書いたピクルスのレシピが近年発見され、それによって当時のギリシャにおいて、バプティゾーという言葉のニュアンスがどういうものであったかがわかりました。

彼は医師であり詩人ですから、言葉を正確に使える知識を持っていたと考えられます。

彼は、「浸す」を意味する2種類の言葉を使って、ピクルスの作り方を説明していました。

①まず野菜を沸騰した湯に浸す。

②次にその野菜を酢に漬け込む。

と書かれていました。

①の「浸す」にはバプトーという動詞が使われていました。

②のほうにはバプティゾーが使われていました。

このレシピの発見により、単純に「浸す」ことはバプトーで、酢が野菜に染み込み、両者が一体になるまで漬け込むことがバプティゾーだということがわかりました。

カリスマ・ペンテコステ派聖霊バプテスマを教える際、バプティゾーの意味として、単に「浸す」という部分だけを教えます。

それは間違いではありません。

ただ、一体化のニュアンスが抜けているということです。

ギリシャ語では船が沈んだ場合もバプティゾーを使って表現します。
 
船が沈むと水が船体に入り込んで、船と水が一体になります。

この状態がバプティゾーされた状態なのです。

この一体化のニュアンスを持った言葉を使って、新約聖書の執筆者たちは聖霊バプテスマを始めとした様々なバプテスマについて説明したのです。

●一体化の例
バプテスマが一体化を意味することの顕著な例として、ローマ6章があります。

パウロは、ローマ書6:3から「キリスト・イエスにつくバプテスマ」の説明を始めています。

ここでいう「バプテスマ」が一体化を意味していることは、バプティゾー以外の表現によっても描写されています。

パウロは、3節の「キリスト・イエスにつくバプテスマ」を言い換えて、「私たちは・・・キリストとともに葬られた」と4節で表現しています。

ここで使われている「~とともに」に当たるギリシャ語はsun/サンという言葉です。

この「サン」は、6節や8節にも使われています。

この言葉のニュアンスは、完成したクッキーの材料の状態のようなものです。

クッキーは、複数の材料が混ぜ合わせてあります。

焼く前は、ある程度それぞれの材料の見分けがつきますが、焼いてしまうと各材料が互いに密着し、一体化した状態になっています。

もはや、各材料を引き離すことはできません。

このような状態を示すのが、サン(~とともに)という言葉です。

ですから「キリストとともに葬られた」の意味は、信者とキリストが一体となって埋葬されたということです。

ですからパウロによれば、「キリスト・イエスにつくバプテスマ」とは、信者がキリストと一体になることなのです。

他にもパウロは、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた」(6節)、「キリストとともに死んだ」(8節)などの箇所で「サン」を繰り返し使い、徹底して信者とキリストとの一体化を語っています。

また注目すべきことは、「葬られた」「十字架につけられた」「死んだ」の時制が、すべてアオリスト過去形であることです。

アオリスト過去形は、過去のある時点に、一度だけ起こった事実を描写する時制です。

つまり、信者の古い人が「キリストとともに葬られ」「十字架につけられ」「死んだ」ことは、歴史的な出来事だということです。

過去において、信者がキリストと一緒に葬られた瞬間が、一度だけあった。

信者がキリストとともに十字架につけられた瞬間が、一度だけあった。

信者がキリストとともに死んだ瞬間が、一度だけあったということです。
 
では私たちの古い人は、いつ十字架で死んだのでしょうか。
 
それは2000年前です。
 
私たちはそのときキリストの中にいて、キリストとともに十字架につけられたのです。

キリストが十字架で死んだときに私たちも死に、キリストが埋葬されたときに私たちもキリストの中にあって埋葬されたのです。

パウロがこの6章で述べているキリストとの一体化とは、実にそういうことです。

ある方にとっては、信者がキリストの中にいるという霊的リアリティーが不可思議に思えるかもしれません。
 
しかしコロサイ3:3~4によれば、私たちは今この瞬間も、キリストのうちに隠されていて、キリストともに天にいるのです。
 
新約聖書、特にパウロの書簡には「キリストにあって」という表現が頻繁に出てきますが、この表現でパウロが意味していることは、信者が文字通りキリストの中に霊的に存在しているということです。

というわけで、「バプテスマ」という言葉は一体化を意味しています。

●他の事例
バプテスマという言葉が一体化という意味で使われるのは、水の洗礼に限りません。

Ⅰコリント10:2の「モーセにつくバプテスマ」もそうです。

「雲」(神の導き)や「海」(神の奇蹟)において、イスラエルの民がモーセのリーダーシップと一体となり、神を体験したことを物語っています。

ゆえに民全員が同じ霊的な食べ物を食べ、霊的な飲み物を飲んだということです。

使徒2:38のペテロの言葉も、一体化を理解すれば納得がいきます。

「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」

これを現代人が文字通りに解釈すると、水の洗礼を受ければ罪が赦され、聖霊が与えられるという理解になってしまいます。

しかし水の洗礼とは、私たちがキリストとともに死に、ともによみがえったことの可視的なしるしであり、それを公にする信仰告白に過ぎません(Ⅰペテロ3:21)。

実質はキリストと信者の一体化、つまり救いです。

ですからペテロはこの箇所で、「悔い改めて、救いを受けなさい」と勧めているのです。

聖霊バプテスマ
一体化の概念は、聖霊バプテスマにも同様に適用できます。

聖霊バプテスマとは、信者が聖霊と一体となるということです。

信者が聖霊と一体になるのですから、それをもって救いを意味する場合もあれば、神の霊の満たしによって力を受けることを意味する場合もあるということです。