ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

「聖霊のバプテスマ」に関する私見 使徒1:5


聖霊バプテスマ」という概念が、キリスト教会を二分しています。
 
 福音派では、新生と同時に起こるものと教えられている一方、聖霊派では、異言をはじめとする聖霊の賜物が信者に現れる条件として理解され、新生とは区別されています。
 
 ではギリシャ語の原文には、どう書かれているかというと、「聖霊バプテスマ」という名詞句は一度も登場しません
 
 日本語訳聖書で「聖霊バプテスマ」と訳されている部分は、「聖霊の中に浸される」という動詞句で書かれています。
 
 このことから私は、こんにち「聖霊バプテスマ」と呼ばれている概念は、新約聖書においては馴染みのないものであり、
 
 聖書の執筆者たちの思いの中では、こんにちのように特別な概念として意識されていないかったと考えています。
 
 
原文の表記
 
使徒1:5 
ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊バプテスマを受けるからです。  
 
 上記の聖句の後半は、原文では以下のようになっています。  
 
 ὑμεῖς  δὲ    ἐν πνεύματι βαπτισθήσεσθε ἁγίῳ 
あなた方は しかし の中に  霊         浸されます      聖なる 
 
 
 日本語訳の「バプテスマ」に当たる分は、「バプティゾーという動詞で書かれています。
 
「浸す」という意味の言葉で、古代ギリシャでは、「船を沈める」と表現するときに使われていました。
 
 ですから上記の箇所を直訳すると、こんな感じです。
 
しかしあなたがたは、聖霊の中に浸されるようになります」(未来形)
 
 
用例
 
 七十人訳ギリシャ語の旧約聖書)では、次の箇所でバプティゾーが使われています。 
 
2列王記5:14 
そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。
   
 また名詞のバプティスマは、次の箇所で使われています。
 
マルコ7:4 
また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある。
 
 
 この事例でわかるように、バプティゾーもバプティスマも、必ずしも洗礼(を授ける)を意味しません。
 
「浸す」とか「浸すこと」という意味の言葉で、洗礼という意味は元々はなかったのです。
 
 Theological Dictionary of the New Testamentによると、バプティゾーやバプティスマという言葉は、新約聖書では新しくて馴染みのないものsomething new and strangeでした(第2巻、P530)。
 
 
 
聖霊バプテスマ」という名詞句が原文で使われていない理由は、名詞句で表現するほど頻繁に持ち出される概念ではなかったことを示しています。
 
 頻繁に持ち出されていた概念であれば、例えば「ヨハネバプテスマ」のように、名詞句として表記されます。
 
 言い換えると、聖書執筆者たちの思いの中には、こんにちのキリスト教界で言うところの「聖霊バプテスマ」という概念は存在しなかったと思います。
 
 では私は、聖霊派の言う「聖霊バプテスマ」を否定しているのでしょうか?
 
 いいえ、そうではなく、聖霊バプテスマ」というのは聖霊の満たしのことだと考えているのです。
 
 一度限りの現象ではなく、何度でも繰り返し起こる御霊の満たし、「聖霊バプテスマ」の実体だということです。
 
 
聖霊の満たしと聖霊の働き
 
使徒2:2~4 
すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
   
 上記の場面で、弟子たちは、いわゆる「聖霊バプテスマ」を受けました。それで異言を語り始めました。
 
 しかし筆者のルカは、「聖霊バプテスマを受け」とは書かずに、「聖霊に満たされ」と書いています。
 
 これはルカの思索の中に、今日で言うところの「聖霊バプテスマ」という概念がなかったことの表れです。
 
 一方で聖書は、(聖霊バプテスマではなく)聖霊の満たしと聖霊の働きを関連づけて表記しています。
 
 以下に、その事例を挙げます。  
 
1)聖霊の満たし⇒預言
 
ルカ1:67 
さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った
 
ルカ1:41~45
エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」
 
ルカ1:15~17 
彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。  
 
2)聖霊の満たし⇒異言
 
使徒2:4 
すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。  
 
3)聖霊の満たし⇒キリストの証
 
使徒4:8 
そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。
 
使徒4:31 
こう彼らが祈りおわると、(たちまち)集まっていた所が揺れ、だれもかれも聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語った。
 
使徒9:17 
そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」
 
使徒13:9~12 
しかし、サウロ、別名でパウロは、聖霊に満たされ、彼をにらみつけて、言った。するとたちまち、かすみとやみが彼をおおったので、彼は手を引いてくれる人を捜し回った。この出来事を見た総督は、主の教えに驚嘆して信仰にはいった。
 
 
まとめ
 
 上記の理由から、聖霊派で「聖霊バプテスマ」と言われている現象は、「聖霊の満たし」のことだ思います。
 
 いま、「浸される/バプティゾーされる」という状況を、思い描いてみてください。
 
 バプティゾーという言葉は、船が沈んだときに使われました。

 船が水の中にバプティゾーされると、船の内部は水で満たされます。
 
 同様に、「聖霊の中にバプティゾーされる」ということは、聖霊で満たされることと同じなのです。
 
 聖書執筆者たちは、そのような理解でバプティゾーという言葉を使っていたと思います。
 
聖霊バプテスマ」と言わずに「聖霊の満たし」と言うなら、福音派の神学ともぶつかりません。
 
 救われた後にでも、聖霊に満たされることは起こり得ますし、上記に挙げたとおり、聖霊の満たしと聖霊の働きは連動していますから。
 
聖霊バプテスマ」という訳語ではなく、例えば「聖霊浸されること」という訳語だったら、状況は多少違っていたかもしれません。