信仰義認への疑いと使徒的解釈
昨今、日本の福音派内でも、信仰義認に対する再解釈が物議を醸しています。
ある新約聖書学者は、信仰義認に対してあからさまに異論を唱えています。
以下は、その方のブログからの引用です(リンクの誤り修正済み)。
たとえば福音書において「信仰と救い」という主題が語られるとき、福音書のテクストが語ることにじっくりと耳を傾ける前に、条件反射的に福音書をパウロ的な信仰義認論の枠組みの中で解釈しようとする、ということが往々にしてなされているのではないでしょうか?
一例として、ルカ福音書10章にある、いわゆる「よきサマリア人のたとえ」を取り上げます。この有名なたとえ話が語られたきっかけは、ある律法の専門家がイエスに対して、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」と訊ねたことです。これに対してイエスは、律法の精髄が神への愛と隣人への愛であることを確認した上で、「そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」(28節)と答えます。このあと、「私の隣人とは誰ですか?」という律法の専門家の問いかけに対して、イエスは「よきサマリア人のたとえ」を語りますが、その結論部分でも「あなたも行って同じようにしなさい」と語っています(37節)。
ここでイエスは、永遠のいのちを得るためには、愛を実践しなければならない、ということをきわめてストレートに教えておられるように思えます。しかし、多くのプロテスタントはこのようなテクストを読むときに、ある種の居心地の悪さを感じるのではないでしょうか。曰く、パウロは「人は善い行いによらずに、信仰のみによって義と認められる」と教えているのではなかったのか?イエスが「ほんとうに」語っておられることは何だろうか?――そのようにして私たちは、テクストの自然な読みの「背後に隠された」意味を見いだそうとするのです。
中略
私はこのような福音書の読み方には大いに違和感を覚えます。パウロの神学(と思われているもの)を基準にしてイエスの教え(あるいは福音書のメッセージ)を評価するのは正しいのでしょうか? 言い換えるならば、私たちの聖書解釈は「パウロ中心主義」に陥っているのではないでしょうか?
(強調はダビデ)
強調部分からわかるとおり、この方は信仰義認に異論を唱えています。
●使徒的解釈
私たちは、主イエスの教えをそのように理解すべきなのでしょうか?
救いには行いが必要だという考え方は、正しいのでしょうか?
いま百歩譲って、パウロ神学に関する従来の理解が間違っていたと仮定しましょう。
私が言う使徒的解釈というのは、新しい概念でもなければ、ややこしいものでもありません。
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パリサイ派の信者が、次のように言っています。
「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである。」
このように、パリサイ派からクリスチャンになった人たちは、救いには行いが必要だと考えていました。
これは正に、先述の神学者の方の見解と同じものです。
しかし、使徒ペテロはこの見解に反論します。
ペテロの神学によると、人は行いによってではなく恵みによって救われるのです。
それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。
ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。(19節~20節、新共同訳)
皆さんもご承知のとおり、エルサレム教会会議で挙げられた条件はこれだけです。
「救われるには何らかの行いが必要だ」という結論には、なりませんでした。
これが私の言う「使徒的解釈」です。
別の記事でも書きましたが、その記事を読んだことのない方のためにもう一度書きます。
それは使徒15章からもわかることですが、次の箇所からもわかります。
ガラテヤ2:9 ・新共同訳
これは、どのような一致でしょうか。
7節に、「彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました」とあります。
つまり、9節の「一致」には教理的一致が含まれているのです。
また、2ペテロ3:16を見ると「ほかのすべての手紙でも」とあることから、この時点においてパウロが既に多くの書簡を書いていたことがわかります。
つまり、働きの初期(ガラテヤ2:9)から終盤(2ペテロ3:16)に至るまで、初代の使徒たちの間には教理的一致があったのです。
●あとがき
従来のパウロ理解、とりわけ信仰義認が攻撃に晒されています。
つまり、初代教会のすべて使徒たちが、主の教えに関して共通の理解を持っていたということです。
そう考えるとき、いま流行している「信仰義認の再解釈」なるものは、少しも聖書的でないことがわかります。
終わり