ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

善きサマリア人の譬えに見る主イエスの真意

 
 ある日本人神学者は、善きサマリア人の箇所は、行いによる救いを説いていると主張します。
 
 しかし前回の投稿で述べたとおり、十二使徒は行いによる救いを否定しています(使徒15章)。
 
 そのような十二使徒の理解は、真理の御霊が彼らを「すべての真理」に導き入れた結果です(ヨハネ16:13)。
 
 もし善きサマリア人の箇所が行いによる救いを教えているとするなら、十二使徒の解釈は誤っていることになり、
 
 ヨハネ16:13の主の約束は嘘だったことになります。
 
 この記事では、善きサマリア人の箇所を精査し、一見、行いによる救いを説いているかのように見える主の真意を探ります。
 
 しかしその前に、同じルカの福音書の7章で主が信仰による救いを説いている箇所を、まず見ておきましょう。
 
 
あなたの信仰が救った
 
ルカ7:37~50
37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、
38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。
47 だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」
48 そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。
49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」
50 しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」
 
 
 主はこの箇所で、「罪深い女」に罪の赦しを宣言しています(47、48節)。
 
 そして50節では、「あなたの信仰が、あなたを救ったのです」と言われ、女の救いが信仰によることを教えています。
 
 また、この箇所をよく読むと、主イエスによる信仰の定義が見られます。
 
 救いに至る真の信仰には、次のような特徴があります。
 
 
自然発生的な行いを伴う37~38節)
 
その行いは主への愛に根差している47節)
 
 
 この信仰は、正にヤコブ2章に書かれている行いを伴う信仰です。
 
                  ***
 
 次に注目すべきなのは、47節と48節です。
 
多くの罪は赦されています」の部分を原文で見ると、受け身の動詞が完了形で書かれています(48節も同じ)。
 
 つまりこの女は、このエピソードの前にすでに罪赦され、救われていたのです。
 
 それゆえ彼女は、行いが伴う真の信仰をすでに持っていました。
 
 その霊的現実が、この場面で現れたのです。
 
 この解釈は、ギリシャ語文法の定義とも一致します。
 
 ギリシャ語の完了形の定義は、「過去に完了した行為の結果が現在も継続している」というものだからです
 
 さらに、50節の「あなたの信仰が、あなたを救ったのです」の部分も完了形で書かれています。
 
 ですから、より良い訳は、「あなたの信仰が、あなたをもう救っているのです」となります。
 
 これは、この女がエピソードの前にすでに救われていたことを裏付けるものです。
 
                ***
 
 また、47節の「というのは、彼女はよけい愛したからです」という部分は、
 
 一見すると、愛の行いによって罪が赦されたかのように読めます。
 
 しかし、エピソード以前に女が救われていたのであれば、話は別です。 
 
 ここで主が云わんとしているのは、
 
 すでに罪が赦され救われていることが、多く愛したことによって判明した、ということです。
 
 分かりやすく表現すると、こうなります。
 
○:赦しと救いはすでに完了していた → 愛による行いはその結果である
 
×:愛による行いによって → 赦しと救いが得られる
 
 
 このように、主の救いの教えは信仰義認であることがわかります
 
ギリシャ語の完了形については、牧師の書斎でも同じ聖書箇所を使って同様の説明がされています。
 
 
善きサマリア人の譬え
 
 上記を踏まえた上で、問題の善きサマリア人の譬えを考えましょう。
 
 この譬えの真の意味を読み解く鍵は、「 」以外の解説の部分にあります
 
 
ルカ10:25・新共同訳
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエス試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
 
 
 まず初めに、この箇所の「試そうとして」という表現に注目すべきです。
 
「試す」という言葉は、以下の箇所の「試みて」と同じギリシャ語です。
 
 
マタイ4:7 (ルカ4:12も同様)
エスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」
 
 
 この『 』内の言葉は、申命記6:16の引用です。
 
 つまり、神を試すことは、律法で禁じられていたのです。
 
 言うまでもなく、律法の専門家は、この戒めを承知していたはずです。
 
 にもかかわらず彼は、主イエスを試しました。
 
 このことは、この専門家が、主をメシアと考えていなかったことを示しています。
 
 彼は、主イエスを単なるラビとしか見なしていなかったのでしょう。
 
 罪深い女が、主イエスには罪を赦す権威があると信じていた一方で、この律法の専門家には、メシアに対する信仰がなかったのです。
 
                ***
 
 29節に「彼は自分を正当化しようとして」とあるとおり、専門家の自己義認に焦点を当てることに主の意図があったことが伺えます。
 
 同じ29節で律法の専門家は、「わたしの隣人とはだれですか」と尋ねています。
 
 この質問をしたことは、彼が「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めを実践できていなかったことを証明しています。
 
 もし彼がこの戒めを十分に実践していたのであれば、隣人が誰であるかがわかっていたはずですから、善きサマリア人の譬えを話す必要性はありませんでした。
 
 ですから、一連の対話における主の狙いは、律法の専門家の自己義認という思い込みに光を当てることにあったのです。
 
 そういうわけで、主イエスは一連の対話の中で、次のことを教えています。
 
 人には、律法を全うすることはできない。
 
 それゆえ、行いによって永遠の命を受け継ぐことできない。
 
 
●あとがき
 
 主イエスは、日本人神学者が考えていることとまったく逆のことを教えているのです。
 
 彼の解釈ミスは、「 」内の言葉だけに囚われたことに起因しています。
 
 ルカによる解説に、もっと目を向けるべきでした。 
 
 結局のことろ、聖書は一貫して信仰による義認(救い)を教えているのです。
 
 終わり