第二正典(シラ書)の矛盾点
シラ書3:3~4
父を尊べば、お前の罪は償われ、同じく母を敬えば、富を蓄える。
シラ書3:30
水が燃え盛る火を消すように、施しの業は罪を償う。
(共に新共同訳・続編P97より引用)
ですから、これら2つの箇所は、「父を尊ぶ」ことや「施し」という行いによって罪が贖われると教えているのです。
しかし、この教えは聖書の内容と整合するでしょうか?
贖い(罪の赦し)については、次の2点が言えると思います。
①贖いの土台
贖い(罪の赦し)の土台は、キリストの十字架にあります。
2コリント5:21
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。
1ペテロ2:24
キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
ローマ3:24
②信仰を通して
キリストの十字架による贖い(罪の赦し)を信じるとき、その信仰によって罪が赦されます。
使徒10:43
ローマ3:25
ガラテヤ2:16
このようにシラ書の引用箇所は、上記の聖句と明らかに矛盾しています。
聖書は徹頭徹尾、十字架による贖いと信仰による義認を教えています。
●主イエスの神学とも食い違う
次に、主イエスご自身の教えと比較してみましょう。
ルカ18:13~14
13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。
この点でシラ書は、主の教えの真逆を教えているといっても過言ではありません。
シラ書によれば、罪の赦しは信仰や神の憐みによるのではなく、人の行いによるからです。
もし誰かがシラ書の教えに従ってしまうなら、その人は自分の行いを誇るようになり、「自分を高くする者」になってしまう恐れすら否定できません。
このようにシラ書の引用箇所は、聖書が一貫して教える「信仰による罪の赦し」と完全に矛盾しています。
また、神の愛と憐みの現れであるキリストの十字架の功績を台無しにしてしまいます。
●おわりに
最後に、パウロの聖書観と比較してみましょう。
以下の箇所を考慮するなら、シラ書はパウロが言うところの「聖書」とは言えないでしょう。
2テモテ3:16
聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
パウロは、聖書は「有益」な書物だと教えています。
その理由の一つは、聖書が「義の訓練」に役立つからです。
しかしシラ書の教えは、人を聖書的な義から逸らしてしまいます。
むしろ、人間の行いによる偽りの義に導くでしょう。
義の概念を歪めてしまうシラ書のような書物は、パウロが言うところの「聖書」と考えるべきではないでしょう。
おわり