義の転嫁とは?
ゴット・クエスチョンの翻訳です。
この言葉は、律法に関する誤解を正す説話の最後の部分です。なので、話の流れを見るために少し前に戻ります。
マタイ5:20にこうあります。「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」
このあとのマタイ5:21~48でイエスは、律法を定義しなおしています。
「パリサイ人の義」は外側だけの行いに終始しているが、あなたがたは律法の本質を大切にするように、と教えています。(中略)
律法に従うことは、単に殺人を避けることではなく、姦淫を犯さないことでもなく、誓いを破るのを避けることでもないし、兄弟に腹を立てないことでもなければ、心の中で情欲を持たないことでもないと。
これらの話をした後で、私たちの義がパリサイ人の義にまさっていなければ、天国には入れないと言っています。
私たちの当然の反応として、「そんなの無理でしょ」と考えます。この反応自体は、間違いではありません。(中略)
正直なところ、私たちは自分の力では決して天の父と同じように(倫理的に)完全になることはできません。なぜなら私たちには、「罪(の性質)」という問題があるからです。
私たちは生まれながらにこの性質を持っています。ですから独力では罪の力に打ち勝つことはできません。
罪の影響は人間の根本的な部分にまで及んでいて、語ることにも考えることにも影響を与えるからです。
ですから善人になろうとしてどんなに努力しても、神の完全さに到達することは絶対にできません。イザヤ64:6に「私たちの義はみな、不潔な着物のようです」とあるとおりです。
イエスが完全に律法をまっとうし、完全なる生涯を生きぬいた理由は、まさにそのためでした。
「今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません」(ローマ3:21~22)。
キリストを信じることをとおして、神の義が私たちに与えられます。このことを「義の転嫁」といいます。
「転嫁」というのは、何かを誰かのせいにすることをいいます。私たちがキリストを信じるとき、神はキリストの義を私たちに転嫁してくださるのです。この義の転嫁により、私たちは神の前に完全に義なる者とされます。
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。第二コリント5:21
この聖句は、信仰をとおしてキリストの義が私たちに転嫁されたことに加え、私たちの罪がキリストに転嫁されたことを述べています。
キリストの義⇒信仰⇒クリスチャン + クリスチャンの罪⇒信仰⇒キリスト
キリストは罪のない方でした。しかし私たちの罪がキリストに転嫁されたため、キリストが「罪とされました」。
義と罪の転嫁がなされたからこそ、パウロは次のように言うことができました。
私(の罪)はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリスト(の義)が私のうちに生きておられるのです。ガラテヤ2:20
このように私たちは、神の目に完全な者になりましたが、その完全さはキリストから来たものなのです。
神が私たちをご覧になるとき、そこにキリストの義をご覧になるのです。
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