ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

義の転嫁とは?


 
 
 
 イエスは山上の垂訓の中で、「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」と言いました(マタイ5:48)

 この言葉は、律法に関する誤解を正す説話の最後の部分です。なので、話の流れを見るために少し前に戻ります。
 

 マタイ5:20にこうあります。「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません
 
 このあとのマタイ5:21~48でイエスは、律法を定義しなおしています。

 「パリサイ人の義」は外側だけの行いに終始しているが、あなたがたは律法の本質を大切にするように、と教えています。(中略)
 

 律法に従うことは、単に殺人を避けることではなく、姦淫を犯さないことでもなく、誓いを破るのを避けることでもないし、兄弟に腹を立てないことでもなければ、心の中で情欲を持たないことでもないと。
 
 これらの話をした後で、私たちの義がパリサイ人の義にまさっていなければ、天国には入れないと言っています。
 

 私たちの当然の反応として、「そんなの無理でしょ」と考えます。この反応自体は、間違いではありません。(中略)
 
 正直なところ、私たちは自分の力では決して天の父と同じように(倫理的に)完全になることはできません。なぜなら私たちには、「罪(の性質)」という問題があるからです。
 

 私たちは生まれながらにこの性質を持っています。ですから独力では罪の力に打ち勝つことはできません。
 
 罪の影響は人間の根本的な部分にまで及んでいて、語ることにも考えることにも影響を与えるからです。
 
 ですから善人になろうとしてどんなに努力しても、神の完全さに到達することは絶対にできません。イザヤ64:6に「私たちの義はみな、不潔な着物のようです」とあるとおりです。

 
 イエスが完全に律法をまっとうし、完全なる生涯を生きぬいた理由は、まさにそのためでした。
 
 イエスの使命は、身代わりに罪を負って十字架で死ぬことだけではありませんでした。完全な義の生涯を送ることもイエスの使命だったのです。
 

 神学者はこのことを、「キリストの積極的服従」(義なる生涯)と「キリストの消極的服従」(十字架)と呼んでいます。
 
 私たちの罪の代価を支払った行為は、キリストの消極的な服従ですが、神が求めている完全な義はキリストの積極的な服従によってもたらされます
 

 キリストの積極的な服従がもたらす義について、パウロはこう述べています。

今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません」(ローマ3:21~22)
 

 キリストを信じることをとおして、神の義が私たちに与えられます。このことを「義の転嫁」といいます。
 
 「転嫁」というのは、何かを誰かのせいにすることをいいます。私たちがキリストを信じるとき、神はキリストの義を私たちに転嫁してくださるのです。この義の転嫁により、私たちは神の前に完全に義なる者とされます。
 

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです第二コリント5:21
 
 この聖句は、信仰をとおしてキリストの義が私たちに転嫁されたことに加え、私たちの罪がキリストに転嫁されたことを述べています。
 

 キリストの義⇒信仰⇒クリスチャン + クリスチャンの罪⇒信仰⇒キリスト
 

 キリストは罪のない方でした。しかし私たちの罪がキリストに転嫁されたため、キリストが「罪とされました」。
 

 義と罪の転嫁がなされたからこそ、パウロは次のように言うことができました。
 
(の罪)はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリスト(の義)が私のうちに生きておられるのですガラテヤ2:20
 
 
 このように私たちは、神の目に完全な者になりましたが、その完全さはキリストから来たものなのです。
 
 神が私たちをご覧になるとき、そこにキリストの義をご覧になるのです。

  
 
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