ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

聖書の隠喩と霊感に関する考察


 聖書の原文に隠喩による表現が使われている場合、それを直訳しても意味が伝わらない場合がしばしばあるはずです。
 
 その原文の筆者が聖霊の導きでその隠喩を使ったとすれば、聖書を翻訳する場合、その隠喩をどう扱うべきなのでしょう。
 
 別の言語に訳した場合に意味が伝わらなくなる隠喩に、そもそも神の霊感は働いているのでしょうか?
 
 具体例を一つ挙げますので、お時間がおありの方はご意見をお聞かせください。
 
 
●事例その1
 
ヨハネ1:12
あなたがたに書くべきことがたくさんありますが、紙と墨でしたくはありません。あなたがたのところに行って、顔を合わせて語りたいと思います。私たちの喜びが全きものとなるためにです。 
 
 
 この聖句の「顔を合わせて」の部分はいわゆる意訳です。
 
 原文には「ストマ・プロス・ストマ」と書かれており、「口から口へ」あるいは「口と口で」という意味の隠喩が使われています。
 
 実際、前田訳と塚本訳は隠喩をそのまま訳しています。
 
 
前田訳
多くのことをお書きしたいのですが、それを祇と墨でせず、そちらへうかがって口から口へお話ししたく思います。それでこそわれらのよろこびが満ちるのです。
 
塚本訳
あなた達に沢山書くべきことを、紙とインキですることを欲しない。それよりもあなた達の所に行って、口と口で語り、わたし達の喜びを溢れさせたいと望んでいる。
 
 
 しかし、このように直訳すると、おかしな日本語表現になってしまいます。
 
 正しい日本語では、このような表現をしません。
 
 国語の試験でこのような表現をした場合、減点されてしまうはずです。
 
 そこで他の邦語訳聖書は、それぞれ次のように意訳しています。
 
 
岩波翻訳委員会訳:口頭で語り合い
 
新共同訳:親しく話し合いたいものです
 
口語訳:直接はなし合って
 
 
 ちなみに、英語訳聖書では軒並み「face to face/面と向かって」と訳されています。
 
 
●事例その2
 
ルカ15:20新改訳) 
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
 
 
 この聖句の「~を抱き」という訳語も意訳です。
 
 新改訳の欄外を見ると、”直訳「首を抱きかかえて」”と書かれていますが、実はこれも意訳です。
 
 本当の直訳は、「(父親は)彼の首の上に下った」となります。
 
 この箇所には「~の上に下る」を意味するエピピプトーという動詞が使われています。
 
 このエピピプトーは「~の上に」を意味するエピと、「落ちる、下る」を意味するピプトーから出来上がった言葉です。
 
 エピピプトーの使用例には次の箇所があります。
 
 
使徒8:16
彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。
 
使徒10:44
ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊お下りになった
 
 
 そういうわけで、直訳は「(父親は)彼の首の上に下った」となります。
 
 ちなみに、他の邦語訳聖書は次のように訳しています。
 
 
新共同訳
そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
 
口語訳
そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。
 
 
 さて、ここで冒頭の質問に戻りましょう。
 
 ヨハネは「口と口で」と書きました。
 
 ルカは「彼の首の上に下った」と書きました。
 
 けれども、このまま日本語に訳したのでは意味が通じません。
 
 日本語としてはおかしな表現になってしまいます。
 
 ですから、多くの聖書は一定の意訳をしています。
 
 意訳することで意味を明確にすることと、直訳で筆者(あるいは原語)のニュアンスを残すのとでは、どちらが正しい訳し方なのでしょうか?
 
 そもそもオリジナルの「口と口で」や「彼の首の上に下った」という隠喩表現には、神の霊感は働いていたのでしょうか?
 
 直訳しても意味が伝わらないことは、聖霊もご存知だったはずです。
 
 もしオリジナルの隠喩に神の霊感が働いていたのだとすれば、意訳を選択した邦語訳の聖書は霊感の一部をカットした、もしくは、意図的に変化を加えたことになります。
 
 皆さんはどう思いますか?