邦語訳聖書のガラテヤ2:16は誤訳なの?
ある牧師さんが、ブログで次のように述べています。
ガラテア2章16節における日本語訳について一言。
余りにひどいので正確に見ておきたい聖句の一つだ。
律法の働きは人を義とはしない
イエスキリストの信仰が人を義とする
イエスキリストにあって
それを我々は確かに信じた
だから救われた
律法の働きは肉を義としない
義とされるにはイエスキリストの信仰が必要だ
新改訳で刷り込まれるマインドは、つねに【自分が】何をするか、【自分が】どうか、と【自分に】フォーカスが置かれるように誘導されるのです。自分が律法を行うか、自分がジーザスを信じるか、と。分かります?
パウロが言いたいのは、私が行うとか・信じるとかではない!ということ。フェイスも私がジーザス【を】信じるのではないのです。つまりギリシャ語の対格ではなく、属格。律法【の】働きは私を救わないが、ジーザス【の】フェイスが私を救うのです。これはガラテヤ2章20節も同じ。
引用元:邦語訳聖書の罠に注意!
私も数年前、これと似たような間違いをしていましたので、償いの意味を込めて誤りを指摘したいと思います。
●教理的側面
まず初めに、「イエスキリストの信仰が人を義とする」というのは、神学的に間違っています。
こういうことを言ってしまう人は、聖書の基本教理が理解できていないのです。
聖書は、義認における人間側の責任を明確に教えています。例えば…
ローマ10:9~10
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
9節では、「あなたの」という人称代名詞が繰り返し使われています。
これは、義と認められる上で人間側が果たすべき責任があることを示しています。
同様に、「信じるなら」という表現も、義と認められるためには人の側が信仰を表明する必要があることを示しています。
10節は、「イエス・キリストが信じ告白したら、あなたは救われます」とは教えていません。
信じ告白すべきなのは、あくまでも「あなた」(人)のほうなのです。
●ギリシャ語文法
また、ブログ主さんはギリシャ語文法のうんちくも述べておられるのですが、
ギリシャ人の聖書学者たちは邦訳聖書と同じ訳し方をしています。
前半:πίστεως στον Ιησούν Χριστόν
信仰 への イエス・キリスト
訳:イエス・キリストへの信仰
後半:πίστιν στον Χριστόν
信仰 への キリスト
訳:キリストへの信仰
この訳し方は、以下の新共同訳とまったく同じです。
新共同訳・ガラテヤ2:16
けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。
ちなみに、2:20のほうもこう訳されています。
πίστεως στον Υιόν του θεού
信仰 への 息子 神の
訳:神の御子への信仰
これは、以下の新共同訳と同じ訳し方です。
ガラテヤ2:20
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
●あとがき
問題は、ギリシャ人聖書学者とドクターKとを比べた場合、どちらのほうがコイネーの理解が正しいかということです。
答えは言うまでもなく、前者でしょう。
言い換えるなら、間違っているのは邦語訳聖書ではなくて、ドクターKのほうだということです。
ずいぶん得意げになっておられるようですが、聖書教理もギリシャ語文法も、ごく表面的にしか理解できていないことが如術に現れています。
終わり