マタイ25章の羊と山羊の譬えは「行いによる救い」を教えている?
この記事では、この箇所が何を教えているかを検証したいと思います。
●文脈と釈義
この箇所の正しい理解の鍵は、34節にあると思います。
マタイ25:34
そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
この箇所の「祝福された」「備えられた」を原文で見ますと、どちらも完了形の受動態で書かれています。
過去に完結した出来事の結果が、(話者から見た)現在も続いていることを表す。
出典:ダニエル・ウォレス著、The Basics of New Testament Syntax: An Intermediate Greek Grammar (Kindle の位置No.5385-5386). Zondervan. Kindle版.
この文法的特徴を24節に当てはめると、次のようなことが言えます。
①過去において父なる神が「右にいる者たち」(羊)を祝福した結果、羊は今もその祝福を受けている。
②世の初めに父なる神が「あなたがた」(羊)のために御国を備えた結果、羊には今も御国が備えられている。
また、受動態は「受身形」とも言われるとおり、「右にいる者たち」と「あなたがた」は「祝福」と「備え」を受ける側で、父なる神がそれらを与える主体であることがわかります。
以上をまとめると、次のように言えると思います。
クリスチャンの救い(御国に入ること)は、神側の祝福と備えによるもの。
しかもその祝福と備えは、私たちが存在すらしていない「世の初め」になされた。
つまり救いを受けるということは、私たちの行いや努力と無関係である。
この結論は、以下のような御言葉と整合します。
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。エペソ2:8
神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、2テモテ1:9
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。エペソ1:4
私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。エペソ1:7
●譬えの真の意味
では、35節以降の主エイスの言葉は、何を意味しているのでしょうか?
特に40節と45節で王は、「~した」や「~しなかった」という表現を使い、いわゆる「行い」に言及しています。
マタイ25:40
『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
マタイ25:45
『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』
この疑問に答えるには、次の箇所が助けになると思います。
エペソ2:10
マタイ25:40までに見られる「良い行ない」は、神が羊に「あらじめ備えてくださった」ものです。
羊は、その備えられた「良い行ない」を恵みによって実行したにすぎません。
一方、マタイ25:45までに見られる「~しなかった」という結果は、「山羊」がもともと「のろわれた者」であったためです(41節)。
つまり、彼らは救いを受けておらず、それゆえ「良い行ない」も備えられていなかったのです。
●まとめ
以上の説明でおわかりいただけるとおり、羊と山羊の譬えは救いの条件としての「行い」を説いているのではなく、救いの結果としての「行い」を述べているのです。
それは以下の御言葉に如術に表現されています。
ヨハネ3:3
まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。
ヨハネ3:5
まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
救いは人の努力では手に入りません。神による超自然的な御業だからです。
主イエスの教えによれば、奇跡(救い)を受け取る手段は「信仰」です。
マルコ10:52
ルカ7:50
このように、救いは「信仰」によるものであって、「行い」ではありません。
終わり