ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

恵みが称えられるため マタイ11:25~27


 私たちの救いの中にある、神の意図について学びます。


マタイ11:25~27 
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。
そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。
すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
 
 
 この箇所で「みこころ」と訳されている語はユードキアといい、
 
 神について使われる場合は善意、善き喜び(good-pleasure)好意、満足感

 という意味です。
 
 次の箇所でも使われています。
 
 
エペソ1:5 
神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
 

 
 また「幼子」と訳されているネピオスは、
 
 ここでは「子供のような者、教えを受けていない者という意味で使われています。
 
 そして、「現わした」と訳されているアポカリュプトーは、

「啓示する」という意味の言葉です(例:1コリント210)。
 
 つまり、賢い者や知恵のある者には神の真理を隠し、
 
 宗教教育を受けいていない単純な者に啓示することは、
 
 神にとって善き喜びであり、満足の行くところだったということです。
 
 なぜでしょうか?
 
 答えは、次の箇所でわかります。
 
 
1コリント1:27~30
しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。
 
 
子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません
 
 とマタイの箇所にあるとおり、私たちの救いは神の側の選びに依存してます。
 
 同じことが1コリント130にも書かれています。
 
 こちらでは、私たちがキリストの内にあること、つまり救われていることは、
 
 神に依るわざだと書かれています。
 
 これは、「自由意志で救いを選んだから私は救われたのだ」とか、
 
「私にコレコレの長所があるから神は救ってくださったのだ」とか、
 
「私がコレコレの良い行いをしたからだ」と、人に誇らせないためです(エペソ28)。
 
 逆に、神の選びの恵みを私たちが称えるためなのです。
 
 
エペソ1:6 (新共同訳)
神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです