「重荷を負っている人」の意味 マタイ11:28~30
この聖句は、教会が看板のようにして掲げる聖句として最も有名だと思います。
この記事では、その意味について考えたいと思います。
マタイ11:28~30
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
この箇所の意味を、文脈の中で見ていきましょう。
25節で、イエスは父なる神を賛美しました。
父なる神が、「賢い者や知恵ある者」(律法学者・パリサイ人)には真理を啓示せず、
幼子のように単純な者、宗教的な教えを受けていない者に啓示したからです。
27節では、「子が心に定めた人」にしか父なる神を知ることができないと言ってます。
一連の流れ中でイエスが語っていることは、
神とその真理を知ることは、神の主権的な選びに依存しているということです。
すべての人が神を知ることができるとは言っていません。
むしろその逆です。
ですから28節の招きの言葉が万人に向けられたものだと解釈すると、
イエスが語っている内容と整合しません。
これから述べるいくつかの要因からして、
この招きの言葉は、神を求めている人に向けられたものと考えるべきだと思います。
●重荷というのは律法主義
聖書中に2箇所しかありません。
そのもう一つの箇所はルカ11:46です。
ルカ11:46
この箇所からわかるのは、
人々が負わされていた重荷とは、律法主義だということです。
罪の重荷でもなければ、漠然とした人生の重荷でもありません。
フォルティゾーという言葉は、宗教的な重荷を負うことを意味しており、
パリサイ人たちが民衆に負わせていた律法主義の重荷と理解する必要があります。
このことは、マタイ23:4にも読み取れます。
マタイ23:4
また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。
●くびき
エレミヤ27:12
ユダの王ゼデキヤにも、私はこのことばのとおりに語って言った。「あなたがたはバビロンの王のくびきに首を差し出し、彼とその民に仕えて生きよ。
ガラテヤ5:1
キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
上記の箇所に見られるとおり、「くびき」という言葉は、
聖書中では「連帯」や「束縛」を比喩的に表現する言葉として使われています。
マタイ11:29、30で語られているイエスの「くびき」は、
律法主義(行いによる人間の義)のくびき(束縛)とは対照をなしています。
イエスのくびきが負いやすい理由は、
イエスが私たちの代わりに律法を成就したからです(マタイ5:17)。
マタイ5:17
わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
生涯をとおしてイエスが律法のすべてを完全に成就してくださったので、
私たちは行いによる人の義ではなく、信仰による神の義に生きればよいのです。
●まとめ
マタイ11:28~30については、
しばしば「罪の重荷」とか「人生の重荷」と解釈した説教を見聞きします。
伝道説教としてはそれでいいかもしれしれませんが、
この箇所の釈義としては正しくありません。
「疲れた人」というのは、律法を守ろうとしても守り切れず、
霊的に疲れている人のことです。
正しく従うなら、たましいに安らぎが来ます。
クリスチャンになる前よりも、なってからのほうが疲れているという人は、
従い方に何らかの間違いがあるのでしょう。
人の義を立てようとして、
知らず知らずのうちに律法主義に陥っているのかもしれません。
信仰による歩みは、疲れないのです。