「携挙を待ち望む一人の花嫁のブログ」を読んで感じた素朴な疑問
そのとき感じた素朴な疑問について書こうと思います。
●部分携挙説
「携挙に備えよ!」には、次のように書かれています。
それゆえ、主がもし、今、来られたら、わずかの人々が準備ができているのです。
そしてほとんどの人が、沢山のクリスチャンでさえも、取り残されるのです。
いくつかの預言やビジョン(幻)では、すべての教会員の集まりが取り残されたのを見せられました。彼らは、彼らにこのことが起こるのを信じないでしょう。
いくつかの預言やビジョン(幻)では、すべての教会員の集まりが取り残されたのを見せられました。彼らは、彼らにこのことが起こるのを信じないでしょう。
(中略)
携挙されない人は不幸ながら、大艱難を通り抜けなければなりません。
(引用終わり)
ここに書かれているような携挙説は「部分携挙説」と呼ばれています。
つまり、一部のクリスチャンだけが携挙されるという考え方です。
この手の携挙論には様々な矛盾が生じます。
当然、イエスさまの言葉とも矛盾してしまいます。
●「ひとりも失うことなく」との矛盾
例えば、ヨハネ6章の御言葉が私の脳裏に浮かびました。
ヨハネ6:39
わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
新共同訳
わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。
同様の約束は40節、44節、54節にも見られます。
さて、ここで疑問が生じてきます。
1テサロニケ4章や1コリント15章からわかるとおり、信者が復活する日には携挙も起こります。
1テサロニケ4:16~17
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。
1コリント15:52
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
さて、イエスさまの約束によれば、すべてのクリスチャンは忠実であろうと不忠実であろうと終わりの日に復活します。
なぜなら主は、「ひとりも失うことなく…終わりの日によみがえらせる」からです。
1コリント15:51
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
新共同訳
わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。
パウロによれば、携挙の際に地上で生きている信者は「みな変えられるのです」。
ここで上記に引用した携挙説を思い出してみましょう。
「沢山のクリスチャンでさえも、取り残される」とあります。
しかし、この取り残されるクリスチャンたちの中には、イエスさまの約束どおり復活するクリスチャンがたくさん含まれているはずです。
また、パウロの言葉にあるとおり、携挙の際に生きているクリスチャンは全員、朽ちないものに変えられます。
ということは、取り残された沢山のクリスチャンの中には2種類の信者が存在するということになります(もし部分携挙説が正しければですが)。
①栄光の体に復活したクリスチャン
②栄光の体に変えられたクリスチャン
そして、その取り残された沢山のクリスチャンたちは、栄光の体のまま大艱難を通り抜けることになるのです(もし部分携挙説が正しければですが)。
しかし、このような現象は聖書のどこにも書かれていません。
渡辺明日香さんや部分携挙説を信じる方々は、この矛盾をどう説明するのでしょうか?
●「終わりの日」との矛盾
もう一つ私の思いに浮かんだことは、イエスさまは信者の復活が「終わりの日」に起こると言っている点です。
渡辺さんが信じる患難前携挙説によれば、信者の復活は「終わりの日」ではなく、その7年前に起こります。
そして、わたしに下さったものを一つも無くさず、最後の日にそれを復活させること、これがわたしを遣わされた方の御心である。40 子(なるわたし)を見て信ずる者が皆永遠の命を持ち、わたしがその人を最後の日に復活させること、これがわたしの父上の御心であるから。(だから信じない者は、父上がわたしに下さらない人たちである。)」
つまり、イエスさまは、(この時代の)最後の日に信者を復活させると約束しておられるわけです。
しかし、患難前携挙説は違います。
同説によると、信者の復活は最後の日の7年前です。
患難前携挙説を信じる方々はこの矛盾をどう考えておられるのでしょうか?
●渡辺さんの携挙論は非聖書的
パウロの言葉とも食い違っています。
つまり、非聖書的だということです。
おわり