ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

ヨハネ17章の大祭司の祈りにおける教会の一致は可視的なものだろうか?


 幾つかのクリスチャン・サイトを見てみますと、ヨハネ17章の大祭司の祈りの意味が誤解されていることに気づかされます。
 
 一部の方々は、大祭司の祈りが叶えられておらず、地上の教会が分裂しているために人々がキリストを信じないと主張しておられます。
 
 確かに、その一致によって「世が信じるため」だと主は言っておられますが、「世が見て信じるため」とは言っておられません。
 
 聖書が教える信仰は、もともと目に見えないもの信じることなのです(へブル111)。

 目に見えるものを信じるのに、信仰は要りません。

 この記事では、大祭司の祈りにおける「一つ」という言葉が地上の教会の可視的一致を指すか否かについて考えます。
 
 
不可視的な一致
 
ヨハネ17:21
それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
 
ヨハネ17:22
またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
 
 
 これらの箇所に言及される御父と御子の一致は、可視的なものでしょうか?
 
 その答えを知るには、次の聖句が役に立つと思います。
 
 
わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい
 
 
 もし御父と御子の関係が可視的であったなら、主イエスはそれを「信じなさい」と言わず、「見ればわかる」と言われたはずです。
 
 また、その一致を証明するために「わざ」を行う必要もなかったでしょう。
 
 つまり、二位格間の一致は不可視的なものなのです。
 
               ***

 次に、教会の一致について述べたいと思います。

 大祭司の祈りの中で言及される教会の一致もまた、御父と御子の一致と同じ様態でなければなりません。
 
 ヨハネ172122の引用において太字で強調した「ように」の部分には、カソスというギリシャ語の接続詞が使われています。
 
 カソスの意味は、「ちょうど~のように、~とおりに」です(織田昭著「新約聖書ギリシャ語小辞典」P282
 
 ですから、御父と御子の一致が不可視的であるのと同じように、教会の一致も不可視的でなければなりません。
 
 つまり、大祭司の祈りは、教会組織や教理的な分裂と無関係な次元における一致を扱っているのです。
 
 
エスの祈りは常に叶えられる
 
 次に明確にしておきたいのは、キリストの祈りの効力についてです。
 
 大祭司の祈りが地上の教会の可視的一致のためだったとしたなら、以下のキリストの言葉は嘘になってしまいます。
 
 
わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。
 
 
 主イエスはこの箇所で、父なる神がいつも主イエスの祈りを聞いてくださると述べておられます。
 
「いつも」と訳されているのはパントーテというギリシャ語で、「いつでも、常に、どんな時にも」という意味です(織田昭著「新約聖書ギリシャ語小辞典」P434)
 
 ですから、父なる神は主イエスの祈りを100%叶えたはずです。
 
 それにもかかわらず地上の教会が分裂状態にあるということは、大祭司の祈りは可視的一致に関する祈りではなかったのです。
 
 
●まとめ
 
 大祭司の祈りの中で扱われている教会を神学的術語で表現すると、「不可視的な教会」または「普遍的な教会」と呼ばれるものです。
 
 私たちが所属するところの地域教会ではありません。
 
 つまり主イエスは、地上で分裂している諸教会が一つの組織になるように祈ったわけではないのです。
 
 各々の信者が霊的な次元で繋がっており、「一つの群れ」であるようにというのが、祈りの目的でした。
 
 この「一つの群れ」については、ヨハネ10章においてすでに語られていました。
 
ヨハネ1016
わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。
 
 
 このヨハネ1016の「一つの群れ」は、ヨハネ172122「彼ら」(教会)と同じ人々を指しています。 
 
 これについては、パウロも同調しています。
 
 
1コリント12:13
なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。
 
 
 この聖句における「ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人」は、ヨハネ1720における「彼らのことばによってわたしを信じる人々」と同じ人々です。
 
 つまり、大祭司の祈りにおける教会は、御霊によって神の国に入った真の信者の群れを指しているのです。
 
 所属する教団・教派で区別された群れとは別物です。
 
 地上の教会は確かに教理的・組織的にバラバラです。
 
 しかし、一つの御霊を受けたことにより、御体なる教会はすでに「一つのからだ」「一つの群れ」になっているのです。
 
 ですから、ヨハネ17章の大祭司の祈りは、その当初から聞かれているのです。
 
 現代の教会が分裂状態にあるからと言って、大祭司の祈りが叶えられていないわけではありません。
 
 おわり