ベテスダの池での癒しのように
前回の記事で、人の救いが父なる神と御子の選びに依存していることを述べました。
次の箇所でも同様のことが語られています。
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。・・・
父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。
19節には、「自分からは何事も行なうことができません。
父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです」とあり、
イエスが、父なる神との完全な一致の中で働きをすることが述べられています。
このことも父なる神との一致の中でなすわけですから、
父なる神とイエスが「与えたいと思う者」にはいのちが与えられますが、
そうでない者には与えられない、ということになります。
つまり人の救いは人間側の願いによって起こるのではなく、
神側の願いにかかっているということです。
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。ローマ9:16
仮に誰かが永遠のいのちを欲しいと思い、神に求めた場合、
父なる神と御子イエスの願いであれば救われますが、
そうでなければ救われないということになります。
先回のマタイ11章と同様、この箇所によっても、
父と御子の完全な一致の中で、選びと救いがなされることがわかります。
●ベテスダの池での癒しのように
この箇所のすぐ前には、有名なベテスダの癒しの記事があります。
さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。
そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。・・・
イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。
3節を見ると、大勢の病人がいたことがわります。
彼らは治りたかったからこそ、この池に集まっていました(新改訳の欄外4節参照)。
現代的な神学で考えたら、
イエスはここにいる病人を全員癒さなければなりません。
しかし実際は、たった一人だけを選んで癒しました。
その選びは、先述の原則でなされました。
子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。
●感想
どう考えても、私たちは恵みによって救われたとしか思えません。
救いについて言うなら、私たち全員がベテスダの病人です。
神による選びに感謝したいと思います。