父がわたしにお与えになる者
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。
父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。
わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。
わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」
しか次の節を見ると、
たとえ信じないことがわかっていても、
伝道することに御心があることを示しています。
このことから、
救いが選ばれた人々に限定されていることと、
すべての人に伝道することの間には矛盾がないことがわかります。
「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます」
つまり、父なる神がイエスに与えている人々は全員救われる、ということです。
言い換えると、
父なる神によって救いに定められている人の救いは、保証されているのです。
救いが、神による主権的な予定に依存していることがわかります。
38節と39節には、イエスがこの世に来られた理由が語られています。
わたしが天から下って来たのは・・・わたしを遣わした方のみこころを行なうためです
わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです
イエスが地上に来たのは、
父によって救いに定められている人々を救うためだったということです。
この39節も、父によって定められた人々は例外なく救われることを教えており、
選ばれた人々の救いが保証されていることを示しています。
40節では、信じた人たち全員を、終末に復活させることが語られています。
事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。
このように救いの保証というのは、
神の約束であることを認識する必要があります。
「自分の意志で救いを否定すれば、信者は救いを失うのだ」と教える人たちがいます。
しかし救いの保証は神の約束ですから、
軽々しくそのようなことを教えるのは重大な間違いであることがわかります。
現にペテロは救い主を否定しましたが、救いを失いませんでした。
イエスによる、大祭司としてのとりなしの祈りがあったからです。
同じとりなしの祈りを、私たちも受けています。
したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。
へブル7:25
父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所(天国)にわたしといっしょにおらせてください。ヨハネ17:24
私たちは神の約束を信じ、救いの保証の恵みの中で安息べきなのです。