あなたからいただいたすべての者
多目的贖罪論について語る際の、用語の定義について短く述べておきたいと思います。
通常、「贖い/贖罪」という言葉は、救いと同義語のように使われます。
しかしここでは、「贖い/贖罪」はあくまでキリストが人の罪をその身に負い、
処理することのみを言う言葉で、救いとは別個の意味で使っています。
例えば多目的贖罪論は、キリストが全人類の罪を贖ったことを主張しますが、
救いは一部の選ばれた人に限られていると考えます。
カルビン主義も救いが限定されていると考えますが、
その根拠は贖罪が一部の人に限定されていたからだと教えます。
カルビン主義/アルミニウス主義:贖罪の範囲 = 救いの範囲
多目的贖罪論:贖罪の範囲 ≠ 救いの範囲
通常私たちは、贖罪の範囲と救いの範囲を別個に考えることに慣れていないため、
両者を混同してしまいがちです。
しかし多目的贖罪論では、
贖罪の範囲は全人類ですが、救いの範囲は神に選ばれた人々だけです。
この違いが生じる理由を、ここ数回にわたり記事に書いています。
今回もヨハネ17章から、救いが選ばれた人に限定されていること、
それゆえその人たちの救いが保証されていることを述べていきます。
それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
この箇所は、一般的に「大祭司の祈り」と呼ばれています。
2節には、父なる神がイエスに全人類を支配する権威を与えた理由は、
「あなたからいただいたすべての者」を救うためだったと書かれています。
それぞれの箇所にある同様の表現を、ブルーで強調しました。
これらの人々は、父なる神が前もって救いに選んだ人々のことを指しています。
6節を見ると、それがはっきりしています。
17:6
わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。
「あなたが世から取り出してわたしに下さった人々」とあり、
父なる神は、全人類ではなく、その中から選んだ者たちをキリストに与えています。
直接的にはイスカリオテのユダを除く、十二弟子を指しています。
イエスは、この特定の人々に父なる神の御名を明らかにしたと言っています。
イエスの伝道をとおして、御言葉を聞いた人はもっと大勢いましたから、
「御名を明らかにする」という表現は、
単に伝道することではなく、救うことを指しています。
一部の人だけを救った理由は、その人たちが父なる神に属する人々であり、
彼らがイエスに与えられていたからです。
17:9、12
わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。
わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。
9節では、イエスに与えられた人々とそうでない人々の区別が鮮明です。
イエスは「世のため」には祈らず、
父なる神から与えられた人たちのためだけに祈っています。
17:20、24
わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。
父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。
20節に来ると、現代の私たちための祈りがささげられています。
たとえ感じられなくても、私たちはキリストによる大祭司の祈りを受けているのです。
私たちも「あなたがわたしに下さったもの」の中に含まれており、
私たちが、キリストのおられる天国に一緒に居ることができよう、
とりなしてくだっています。
●イエスのとりなしの効果
ルカ22:31~32
シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
マタイ10:33
しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。
ペテロはサタンのふるいの中で、3度イエスを否定しました。
マタイ10:33に照らすなら、ペテロは救いを失ってもおかしくありません。
しかしイエスが、ペテロの「信仰がなくならないように」とりなしたので、
ペテロの信仰は守られました。
ヨハネ17:20と合わせて考えるなら、私たちも同じ守りを受けているのです。
一方、イエスは、神に選ばれていない人々のためには祈りませんでした。
それらの箇所に書かれているとおり、
神はひとり子を与えるほど世を愛し、
御子を「全世界」の罪のなだめの供え物にしました。
そのようにして、神は全人類の贖罪を行ないました。
しかしいざ救いに関しては、選んだ人とそうでない人の区別が明確になされており、
その選びに従って、救われるか否かが決められています。
そういうわけで、
罪の贖いは全人類のためになされていますが、
救われるのは一部の人々だけ、というのが聖書の教えるところなのです。