ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

質問者さんへの応答 パート2

 
 前回は、救いにまつわるご質問にお答えしました。
 
 今回は、部分携挙説に関してお答えします。
 
それと、部分携挙の人の主張に「聖書の中では携挙されたのは沢山のクリスチャンの中でエノクとエリヤだけ。エノクとエリヤは「神と共に歩んだ」から携挙された。携挙されるのはこれくらい難しい」というのを聞いた事があり、不安です。二人しか携挙されていなかったのは確かだからです。

これについてどうお考えになりますか?
            
 
二人しか携挙されていなかったのは確かだからです
 
 質問者さんは、「イエス・キリスト祈りの家福音伝道センターへようこそ!のようなサイトで部分携挙説に関する情報に触れたのではないでしょうか。
 
 この教えはスーザン・デイビスという女性が受けた啓示に基づく教えで、聖書から直に導き出されたものではありません
 
 このことについては、同センターの「教会案内」に掲載されたYouTube動画【悔い改めよ】携挙される者はわずかしかいないで語られています。
 
 つまり、カルト的な要素を含んでいるということです。
 
 ちなみに、同センターのウエブには次のような文章も掲載されています。
 
 
生きたまま天に携挙された信仰者は二人しかいない。
神イエスによる天地万物および人類の創造から6022年(紀元前4004年~西暦2018年)が経過しました。
聖書には「この世の始まり」から「この世の終わり」まで、そして次の世界「天国」と「地獄」のことまで記録されています。
聖書の記録によれば、神イエスによって生きたまま天に携挙された人物は、主の僕「エノク」と「エリヤ」の二人だけです。
生きたまま天に携挙されるということがいかに難しいか、これでわかりましたか?
この世のほとんどのクリスチャンが、生ぬるい信仰生活を送っており、ほとんどのクリスチャンが地上に取り残されます。
 
 
 
誤解 その1
 
 過去記事で述べたとおり、部分携挙説そのものが非聖書的で矛盾に満ちています。
 
 例えば、イエスさまの約束と矛盾します。
 
 
わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
 
新共同訳
わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。
 
 
 上記のとおり、イエスさまは「ひとりも失うことなく…終わりの日によみがえらせる」と約束しています。
 
 同じ約束が40節、44節、54節にも見られます。
 
 つまり、この世が終わるその日にすべてのクリスチャンは復活するのです。
 
 1コリント15章にあるとおり、私たちはその時、「朽ちない」体、「栄光ある」体、「御霊に属する」体によみがえらされます。
 
 
1コリント15:444
42 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。
 
 
 パウロはこの少し後の箇所で、「みなが変えられる」と教えています。
 
 しかも、その教えは「奥義」、つまり、これまでは明らかにされていなかった真理だと語っています。
 
 
1コリント15:51
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
 
 
 このように聖書は、クリスチャンが全員よみがえり、全員変えられると教えています。
 
 部分携挙説が誤りであることは、火を見るよりも明らかです。
 
 
誤解 その2
 
 次に、「天に携挙される」という概念は聖書のどこにも書かれていません。
 
 これは、患難前携挙説を信奉する人たちの思い込みであり、誤解です。
 
「携挙」という言葉は、1テサロニケ417に使われているハルパゾー(取り去る)ラテン語訳に由来しています。
 
 しかしパウロは、「天に引き上げられる」とは教えていません。
 
 ギリシャ語のテキストを調べてわかることは、むしろ逆です。
 
 携挙された信者は、空中で主を出迎えて再び地上に戻るのです。

 1テサロニケ4:17の詳細な解釈については、コチラの記事の後半をご覧ください。
 
 従って、エノクやエリヤは「携挙」されたのではありません。
 
 聖書のどこを見ても、この二人が「携挙」されたとは書かれていません。
 
 これも患難前携挙説を信奉する人たちの思い込みであり、誤解に過ぎないのです。
 
 おわり