ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

患難前携挙説は善意で「虚偽」を拡散している

 
 キリスト教啓発サイト「True Ark」を運営する方は、善意で「携挙の真実」と題する記事を投稿されています。
 
 しかし記事の内容は真実ではなく、「虚偽」です。
 
 どこがどうして虚偽なのか、検証しようと思います。
 
 
患難後携挙説の場合、キリストの再臨は二段階ではなく、一段階で来ると信じられており、地上再臨と空中再臨を分けて考えることはない。そして、筆者が考える患難後携挙説の重要な問題点は、キリストの再臨の時期がある程度わかってしまう、という点にある。
 
既に学んだように、イエスが花嫁である教会を迎えに来る時は、天使たちもキリストも知らず、ただ父だけが知っている。そのため、いかなる人間でさえ、彼がいつ来るのかを予測することはできない。
 
36 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(マタイ2436
 
ところが、終末期の聖書預言を紐解けば、イエス・キリストが地上再臨するタイミングは、大患難時代の終わりであることが明らかになっている。特に、ヨハネの黙示録の預言においては、19章で登場する再臨のキリストまでに、どのような順序で裁きが進行するのかが、明白に描かれている。
 
結論として、キリストの地上再臨のタイミングは終末期の預言からある程度予測ができるので、空中再臨と地上再臨を同一時期と見做す患難後携挙説は、「その時がいつであるかは、だれも知りません。」というキリストの預言とは相容れないことがわかる。
        

出典:「携挙の真実」http://true-ark.com/prophecy-rapture/
 
                          
検証


 上記の記事を書かかれた方は患難前携挙説の本や文書を鵜吞みにしており、自分自身で聖書を調べてないと思います

 次の一節が、それを伺わせます
 
患難後携挙説の重要な問題点は、キリストの再臨の時期がある程度わかってしまう、という点にある
 
 この方は、再臨の時期がある程度わかることが誤りだと考えています。
 
 ところが、キリストご自身の指示は、その真逆す。


マタイ24:3233
いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。33 そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。
 
 
 まずは、この箇所が真に云わんとしていることを考えましょう。
 
夏の近いことがわかります」という一節には、動詞の主語がありません。
 
 しかし、原文を見ると主語がわかるようになっています。
 
「わかります」と訳されているギノスケーテの語尾変化から、主語二人称の複数であることがわかるのです。
 
 日本語にすると、「あなたがた」が主語です。
 
 それゆえ、岩波翻訳委員会訳主語を書き添えて、次のように訳しています。
 
 
いちじくの木から、〔次の〕譬を学べ。その枝がすでに柔らかくなり、葉が生じると、夏が近いとあなたたちは知っている。
                                
 
 さらに33節の「あなたがた」の部分には、ヒュメイス(「あなた」の複数形)が使われています。
 
 すでに説明したとおり、ギリシャ語の場合、主語が書かれていなくても主語がわかるようになっています。
 
 ですから、この節のように敢えて主語が書かれている場合、話者(または筆者)はその主語を強調しているのです。
 
 つまり、キリスト(あるいはマタイ)は、「あなたがた」(オリーブ山の講話の聞き手あるいは本福音書の読者)に対して、「知りなさい」と強く命じているのです。
 
 では、何を知るように強く命じておられるのでしょうか?
 
 それは言うまでもなく、「人の子が戸口まで近づいている」こと、つまり、再臨です。
 
 このように主イエスは再臨の近さを知りなさいと、弟子たち(また、現代の私たち)に強く命じているのです。
 
 ところが、上記の筆者はそれを否定しています。
 
 つまり、この方は事実上、キリストの命令は誤りだと言っているのです。
 
 要するに、この方の終末理解は、非聖書的な土台に乗っているということです。
 
 
第二の誤り
 
 次に、この方の第の二誤りを指摘します。
 
エスが花嫁である教会を迎えに来る時は、天使たちもキリストも知らず、ただ父だけが知っている
 
 この方はこのように言っておられますが、この一文にも真逆の誤りが含まれています。
 
 それは「エスが花嫁である教会を迎えに来る時」という一節です。
 
 前回の記事でも触れたのですが、「迎えに来る」のは信者のほうであって、主イエスではありません。
 
 この点は、文語訳的確にも「我らは主を迎へ」と訳しているとおりです。
 
 
Ⅰテサロニケ4:17
後に生きて存れる我らは、彼らと共に雲のうちに取り去られ、空中にて主を迎へ、斯くていつまでも主と偕に居るべし。
 
 
 「主を迎へ」と訳すべき理由の詳細については、コチラの記事の後半をお読みください。
 
 
第三の誤り
 
 さらに、この方の第三の誤りを指摘しようと思います。
 
19章で登場する再臨のキリストまでに、どのような順序で裁きが進行するのかが、明白に描かれている
 
 しかし、この言葉からわかるのは、この方が黙示録の構造をご存じないということです。
 
 黙示録は、必ずしも時系列的に描かれているわけではありません。
 
 同じ場面を異なる角度から描写している場合が多いのです。
 
 例えばヨハネ黙示録14:8で「大バビロンは倒れた。倒れた。…」と書いています。
 
 しかし18:2で再び、「倒れた。大バビロンが倒れた。…」と書いています。
 
 なぜか新改訳では「 」内の言葉の順番が微妙に入れ替わって訳されていますが、原文を見るとまったく同じです。
 
 どちらも「Ἔπεσεν ἔπεσεν Βαβυλὼν ἡ μεγάλη/エペセン エペセン バブローン へー メガレー」と書かれています。
 
 このことから、同じ場面が繰り返されていること明らかにわかります。
 
 このように、黙示録を時系列的に解釈した場合、誤りに陥ることは必至です。
 
 
百害あって一利なし
 
 主イエスは確かに、「その時がいつであるかは、だれも知りません」と言われました
 
 しかし、それは再臨の具体的な日時についてであって、再臨の近さについてではありません。
 
 再臨の近さについては、「知りなさい」と強く命じておられます。
 
 これを否定する患難前携挙説は、反聖書的な虚偽を拡散していると言わざるを得ず百害あって一利なしです
 
 おわり