ディスペンセーション的前千年王国説の問題点
この記事では、ディスペンセーション的プレミレの聖書解釈を検証します。
●患難前携挙ありきの聖書解釈
黙示録20:4~6
また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。
そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。
この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。
この箇所の解釈について、「牧師の書斎」というサイトから、
ディスペンセーション的プレミレの聖書解釈の問題点を見ていきます。
同サイトの著者の方は、上記の箇所を以下のように解釈しています。
黙示録20章4節に「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。・・・彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。」とあります。
6節では、「彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」と記されています。
「彼ら」とは、イスラエルの民で、反キリストの大患難に屈せずに殉教した人たちです。彼らは、王という立場で、御国においてなんらかのさばきを行う地位に着かせられます。
(引用終わり)
著者の方は、「彼ら」とはイスラエルの民であるとしています。
これを検証するために、この箇所をギリシャ語聖書で見てみます。
Καὶ εἶδον θρόνους καὶ ἐκάθισαν ἐπ’ αὐτοὺς
また 私は見た 王座を そして 彼らは座った 上に それらの
上記は20:4の冒頭の部分です。
この箇所には、実際は「彼ら」という人称代名詞は書かれていません。
「座る」という動詞の形から、その動詞の主語が複数の3人称であることがわかるので、
翻訳者の判断で「彼ら」という人称代名詞を補って訳しているのです。
では、このことから何がわかるかというと、
「座る」という動詞の主語は、ここよりも前の箇所に書かれているということです。
それは20:1~3には見当たりませんから、19章のどこかということになります。
具体的には19:19~21に出てくる、「馬に乗った方」と一緒に戦う軍勢です。
「軍勢」自体は単数形ですが、ヨハネは幻の画像をビジュアルに見ています。
ですから、軍勢が複数の人間で構成されて見えていることは明らかです。
そういうわけで、20:4の「彼ら」に相当する人物は、キリストの軍勢です。
では、この軍勢とはどういう人たちかを調べましょう。
黙示録19:14
そして天の軍勢が真白な潔い細布の衣を着、白い馬に乗って彼に従っていた。
主の軍勢が最初に登場するのは14節で、「細布」を着ています。
19:8の「花嫁」が着ている「麻布」と同じ単語です。
黙示録19:8
花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。
軍勢と花嫁が着ているブスィノスは、「聖徒たちの正しい行ない」です。
ですから、「主の軍勢=花嫁=聖徒たち」ということがわかります。
キリストの来臨は、19章の前半では結婚、後半では戦争(ハルマゲドンの戦い)の幻で描かれている。すなわち来臨のキリストは、悪の軍勢を滅ぼす神の軍隊の将であるとともに、花嫁である教会を迎える花婿でもある。
岡山氏の解釈からも、神の軍勢=花嫁=教会ということが確認できます。
これが黙示録20:4~6の「彼ら」の正体です。
●あとがき
ディスペンセーション的プレミレの聖書解釈は、
患難前の携挙という前提ありきでなされています。
引用したサイトの著者の方は、とてもよく聖書を研究なさっておられます。
しかし間違った前提を基に聖書を解釈しているので、答えがブレています。
これではブレミレですね(笑)。
おやじギャグですみませんm(_ _)m