後千年王国説と千年一日説
この記事では、後千年王国説の聖書解釈を参照した上で、千年一日説と比較します。
●後千年王国説
後千年王国説(ポスミレ)の聖書解釈については、
ベットナー氏は、同書のP120~P121で以下のように述べています。
教会は真理を証することに非常に熱心で、民衆の生活に対しても非常に影響力があるので、
今後も現在と同じように、地上における神の国の外面的かつ可視的現れでありつづける。
一口に言えば、後千年王国説信奉者は、人の心の中にある霊的な王国を主張するのである。
(引用終わり)
要するにポスミレは、千年王国においてキリストが可視的かつ実際的に地上を統治することは信じていないということです。
あくまで、人の心の中における霊的支配という意味で、キリストが統治することを信じているだけなのです。
言い換えると、黙示録20章を字義通りには解釈しないということです。
●聖書解釈
上記のような見解は、大宣教命令の解釈に基づいています。
マタイ28:18~20
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
すべての国々の民への真実で効果が伴う伝道も含まれると信じている。それによって、人々の心と生活が変容すると。
そのことは、天と地における一切の権威がキリストに与えられているという事実により、はっきりしている。…
弟子たちは単に福音を語ることだけでなく、すべての国々の民を弟子とすることも命じられている。
彼らは不確かな実験をするように召されたのではなく、確かな勝利を収めるように召されたのだ。
同書のP124にはこうあります。
黙示録20:11~15は、次の聖句で締めくくられている。
「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」
この表現は、裁きにおける基準が、いのちの書に名前が書かれていることであることを示している。
そのような表現は、そこに名前が書かれていない者は例外的であること、つまりレアなケースであることを示しているのだ。
同書P130では、このように述べています。
インド、中国、日本、韓国、インドネシアや近東に生活する現世代は、宗教、社会、政治において、過去2000年に比べて大きな変化を見続けていると言ってよい。
これらの国々のほとんどにおいては、福音の更なる前進に向けて土台が敷かれているだけでなく、道徳文化や社会福祉が大きく前進している。道徳規準は、教会が初めて設立された時よりも遥かに高い。
●私の所見
極めて楽観的な世界観であり終末観だというのが第一印象です。
P130から引用した内容について言えば、
まったくの誤解だと言ってよいほど肯定的な理解がされています。
キリストの権威の力強さに信頼を置くのは結構なことですが、
ペットナー氏は、担当した25ページの中で、
終末に関する聖書箇所はほとんど取り上げていません。
それゆえ、聖書解釈の違いを千年一日説と比較しようにも、比較できない状況です。
黙示録20:15の解釈について言えば、次の箇所と完全に食い違っています。
マタイ7:13~14
狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
黙示録は、イエス・キリストによる啓示です(黙1:1)。
聖書を神の言葉として信じ、イエスを主として信じているのであれば、
もう少し真摯に、聖書解釈と向き合うべきではないかと思わされました。