ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

千年一日説のユダヤ教および初期キリスト教的根拠


 千年一日説のユダヤ教的背景や、初期キリスト教的背景について記事にしました。
 
 
ユダヤ教的背景
 
 以下は、ユダヤ教ティーチングサイト「Chabat.org」からの引用です。
 
 寄せられた質問に対して、サイトの筆者が答えています。
 
質問:
ラビからは、6000年目の年が(この世の)最後の年だと聞いています。その年には、モシアハ(ユダヤ教のメシア)が到来して、贖いが始まると。私はその最後の年がいつなのか、人にはわからないものと思っていました。ラビは何を根拠に、このように言っているのでしょうか?
 
回答:
タルムード(口伝律法)によると、周知のとおり、この世界は6000年間継続します。そして7000年代には宇宙的安息日、つまりメシア時代が始まります。人は週に6日働き、安息日には休んで労働の実を楽しみます。それは7000年間(の世界の歴史)でも同じことです。
 
 
 Chabat.orgの別記事「モシアハと何者か?」には、以下のような説明があります。
 
メシア的贖いは、ある人物、ダビデ王やソロモン王の子孫である人間の指導者によって始められます。この人物は、ダビデ王朝を復興します。伝承によれば、モシアハはソロモンよりも知恵があり、モーセのレベルの預言者です。       
                                 
 
教父たちの理解
  
  キリスト教初期の教父たちの中にも、千年一日説を信奉する人たちがいました。

エイレナイオス130年~202年)
For the day of the Lord is as a thousand years; and in six days created things were completed; it is evident therefore, that they will come to an end at the six thousandth year.
Irenaeus, Against Heresies, book V, xxviii, 3; quoted in Ed Reid, Even at the Door, p. 129.
 
主の日は1000年のごとくである。また万物は6日間で創造され、完成された。それゆえ、万物の終わりが6000年後に来ることは明白である。
 
 
ヒッポリュトス170年頃~235年)
For the Sabbath is the type and emblem of the future kingdom of the saints, when they shall reign with Christ, when He comes from heaven, as John says in his Apocalypse. For a day with the Lord is as a thousand years. Since, then, in six days God made all things, it follows that 6000 years must be fulfilled.
Hipolytus, Fragments From Commentaries, sections on Daniel 2, chapter 4; quoted in Ed Reid, Even at the Door, p. 129.
 
安息日は、聖徒たちの未来の王国(千年王国のこと)の原型であり象徴である。ヨハネが黙示録で言っているとおり、そのとき聖徒たちは、キリストが天から来られた後、キリストと共に統治することになる。なぜなら『主の御前では、一日は千年のようである』からだ。神は万物を6日で造られたのだから、6000年が満了しなければならない。
 
 
主の日=千年王国
 
 上記のとおり、ユダヤ教や初期の教父たちは、千年王国を「安息日」と呼んでいます。
 
 また、黙示録の千年王国の描写は、聖書中の「主の日」の描写と酷似しています。
 
 
黙示録20:7~10
しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、8 地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。9 彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。10 そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。
 
 
 上記は黙示録の千年王国の描写です。
 
①異邦人の軍隊が召集され、エルサレムを攻めます。
 
②それを霊的に先導するのはサタンです。
 
③しかし軍隊は、天からの火によって滅ぼされ、サタンは地獄に落とされます。
 
 
 以下は、聖書の「主の日」の描写です。
 
 イザヤによれば、「主の日」は、異邦人の軍隊が全世界を滅ぼそうとする日です。
 
イザヤ13:4~6
聞け。おびただしい民にも似た山々のとどろきを。聞け。寄り合った王国、国々のどよめきを。万軍の主が、軍隊を召集しておられるのだ。5 彼らは遠い国、天の果てからやって来る。彼らは全世界を滅ぼすための、主とその憤りの器だ。6 泣きわめけ。主の日は近い。全能者から破壊が来る。
 
 
 またヨエルも、「主の日」は異邦人がイスラエルに攻め上る日だと預言しています。
 
ヨエル1:6~15
一つの国民がわたしの国に攻め上った。力強く、数えきれない国民だ。その歯は雄獅子の歯、それには雄獅子のきばがある。15 ああ、その日よ。主の日は近い。全能者からの破壊のように、その日が来る。
 
 
 ユダは、「大いなる日」に主が堕天使を裁くと記しています。
 
ユダ1:6 
また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。
 
 
 ゼカリヤ14章は「主の日」について多くのことを教えています。
 
 その日が特定の1日であると同時に、千年王国であることを描いています。
 
 
①異邦人の国々がエルサレムを攻めます(1節)。
 
②主の日は再臨の日です(3節)。
 
③「すべての聖徒たち」も主と共にやって来ます(5節)。
 
④主の日には、「光、寒さ、霜、昼や夜」がありません(67節)。
 
⑤主の日は「ただ一つの日」です(7節)。
 
⑥夏や冬という季節はあります(8節)。
 
⑦主が地球全体の王になります(9節)。
 
イスラエルの地は「アラバのように」平地になり、エルサレムは隆起します(10節)。
「高められ」と訳されているラアームは、「隆起する」という意味の言葉です。
 
⑨主の日には、人々はイスラエルで「安らかに」暮らすようになります(11節)。
 
⑩この平和は、主の超自然的な守りによります(1215節)。
 
エルサレムを攻めた異邦人の一部は生き残り、主を礼拝するようになります(16節)。
 
⑫主を礼拝しない諸国民には、罰が課されます(1719節)。
 
エルサレムには神殿があり、生贄が捧げられるようになります(2021節)。
 
⑭「主の宮の中のなべは、祭壇の前の鉢のようになる」という表現は、穢れたものと聖いもの区別がなくなることを示しています(20~21節)
 
⑮「商人」と訳されている語はケナアニーといい、「カナン人」のことです。
 民族的相違がなくなり、誰もが主を礼拝するようになることを示しています(21節)。
 
 
 
 ゼカリヤ14章は「主の日」を説明していますが、
 
 その描写の内容は千年王国を指示しています。
 
 このことから、「主の日」=再臨の日=千年王国と結論することが理に適っています。
 
 またマタイ25章は、再臨の日にすべての人間が裁きを受けることを教えています。
 
 
マタイ25:3146 
人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。
 
 
 この譬えによると、羊と山羊の裁きは同時に行われるように思えます。
 
 しかし黙示録20461214から、
 
 信者の裁きと不信者の復活と裁きの間には1000年間の開きがあることがわかります。
 
 先述したユダ16の「大いなる日」の堕天使の裁きや、
 
 黙示録20章のサタンの裁きと合わせて考えると、
 
 裁き日=千年王国ということも言えます。
 
 
●あとがき
 
 終末にかかわる色々な箇所を考え合わせると、
 
 主の日=再臨の日=裁きの日=千年王国という結論に至ります。
 
 もちろんこれは、再臨が千年かけてゆっくり起こるということではないでしょう。
 
 実際は千年の最初の1日に起こるのかもしれません。
 
 しかし聖書の描写としては、複数の出来事が同じ日に起こると書かれているのです。
 
 重要な点は、千年一日説なしにはこの結論は得られないということです。

 この概念なしに解釈すると、字義通りに解釈できない聖書箇所が出てきます。

 すべての箇所を字義的に解釈するには、千年一日説が不可欠です。