神の愛 1ヨハネ4:7~10
次の箇所から、神の愛について学びたいと思います。
愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。
愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
7節の「神を知っています」の「知っている」は、もうお馴染みのギノスコーです。
ですから、愛のある者は、体験的に神を知っている、
というのが、このフレーズの真意です。
読者の皆さんには、
「私の〇〇にももかかわらず、神はコレコレの形で愛を示してくださった」
という体験があると思います。
あるいは聖書を読んでいて、神さまのコレコレな側面がわかったという、
御霊の働きを体験しておられると思います。
そういう神体験によって神を知ること、それが「神を知っています」の意味です。
先日ご紹介したカナダの女性牧師のように、
聖書を知的に知っているだけの場合、神をギノスコーしていないのです。
次の8節に書かれていることが、まさにそういうことです。
8節の「神はわかりません」にもギノスコーが使われていますが、
ここのギノスコーは、アオリスト過去形で書かれています。
それが否定されているので、
「過去において神を知った経験がない」というのが真意です。
●9節
1ヨハネ4:9
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
9節で述べられている愛は、この世で言われる愛ではありません。
ヨハネが9節で言っている愛は、この世には示されていない愛です。
この愛について説明します。
9節の後半に、「私たちに示された」とあります。
ここを原文で見ると、
「私たちの中に」示されたと書かれています(エン ヘメイス)。
これは12節と同じ表現です。
もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
神が世の人の中にはおられないように、
9節で述べられている神の愛も、クリスチャンの中にしか示されていません。
もう1カ所、見てみましょう。
「この人に」は、やはり「彼の中に/エン」です。
「現われる」は1ヨハネ4:9の「示された」と同じ言葉です。
神のわざがこの盲人だけに現われたように、
9節の神の愛も、救われた人にだけ現されているのです。
言い換えると、神にとってみなさんは特別な存在で、
この世の人々とは区別されているのです。
この世に明らかにされないものが、クリスチャンには明らかにされているのです。
このような区別は、次のキリストの祈りの中にもはっきり表れています。
同じような区別がされている聖句は、他にもあります。
イザヤ43:4
ローマ9:13(前田訳)
マラキ1:2~3
「わたしはあなたがたを愛している。」と主は仰せられる。あなたがたは言う。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。」と。「エサウはヤコブの兄ではなかったか。――主の御告げ。――わたしはヤコブを愛した。わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とし、
●クリスチャンに対する神の愛
この愛し方の区別について説明します。
教会というのは、キリストにとって妻です(エペソ5:25、32)。
妻への愛と妻以外の女性への愛が同じだったら、とんでもないことになりますよね!
妻帯者の方は、奥さんに訊いてみてください。
もしご主人が、奥さんと同じように別の女性を愛していたら、
妻を愛していることになるでしょうか?
答えはもちろん「ノー」です。 なぜでしょうか?
それは、夫婦間の愛は、契約の愛からです。
それと同じように、キリストとクリスチャンの間の愛も契約の愛なのです。
これはエペソ5:32で、パウロが「奥義」と言っているとおり、
聖書の中では、余り大々的に書かれていません。
しかしキリストが血を流したのは、まさにこの契約のためでした。
1コリント11:25
この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。
私たちの中には、この契約の愛が示されているのです。
神さまから発した愛による、神さま主導の救い。
この中にこそ、神の愛があるのです。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
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