「信仰義認の再解釈」に関する疑問 その6
この記事でも、三谷氏の聖書解釈の誤りを指摘します。
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次の御言葉は、「予定説」を強く支持しているように読める。
「神はモーセに、『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ』と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです」(ローマ9:15、16)
確かにこの御言葉からは、誰を救うかは、神の意思が自由に決めているかのような印象を受ける。しかし、それは正しい印象ではない。なぜなら、パウロは同じローマ書でこう書いているからだ。
「こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです」(ローマ5:18)
パウロは、神の思いは特定の誰かを救うことではなく、「すべての人が義と認められ」、「永遠のいのち」が得られるようになることだと明確に述べている。さらにはこうも言っている。
「なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです」(ローマ11:32)
神の意思は、すべての人をあわれむことにある。誰を救い、誰を滅ぼすなどという計画などまったくないことを、パウロは明確に述べている。
●問題点
①誰を救うかは、神の意思が自由に決めているかのような印象を受ける。しかし、それは正しい印象ではない。
この部分の「しかし、それは正しい印象ではない」という表現は、三谷氏が読者を丸め込むために繰り返し用いている手法です。
②「ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです」
ローマ5:18には、確かにこう書かれています。
例えば、次の箇所がそのことを述べています。
ローマ1:17・新共同訳
福音には、神の義が啓示されていますが、それ(神の義)は、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
ピリピ1:29・新共同訳
つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。
エペソ2:8
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
エペソ2:8後半の「それは」という部分は、前文の内容、つまり恵みと信仰によって救われることを指しています。
それゆえ、信仰も救いも人間には作り出すことができません。両方が神からの贈り物です。
つまり、救いに至る信仰を神が与えてくださらない限り、人は救われないのです。
ですから、三谷氏が歪曲した次の箇所は、書かれているとおり素直に理解すればよいわけです。
ローマ9:15~16
神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。
三谷氏の言葉を借りるなら、この箇所の意味はこういうことです。
「誰を救うかは、神の意思が自由に決めている」
③「なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです」(ローマ11:32)
三谷氏は、この箇所の解釈を間違えています。すべての聖書箇所は、文脈の中で理解しなければなりません。
ですから、この箇所の「すべての人」という表現も、個人を指して「すべての人間」という意味で使っているのではなく、
「すべての民族」という意味で使っているのです。
日本語の聖書では、「人」という文字を加えて「すべての人」と訳していますが、ギリシャ語の原文では、「すべて」を意味する「パンタス」一語しか書かれていません。
Considering the corporate perspective that is basic to chap. 11, then, it seems best to think that “all” refers to ”all the group” about which Paul has been speaking; for example, Jews and Gentiles. Paul is not saying that all human beings will be saved.
11章の基盤である集団的見方を考慮すれば、「すべて」という言葉は、パウロが語りつづけてきた「すべての集団」を指していると考えるのが最善であろう。例えば、ユダヤ人と異邦人という集団である。パウロは、すべての人間が救われると言っているのではない。
●まとめ
三谷氏のように、一つの聖句だけを抜き出して切り張りするなら、どんな教理でも作り出すことができます。
そういった解釈の仕方は、往々にして聖書の内容を歪めます。私たちは、文脈から逸れた聖書解釈を警戒しなければなりません。