ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

「信仰義認の再解釈」に関する疑問 その7

 
 
この記事は、クリスチャン・トゥデイ掲載のコラム「福音の回復(45)誰が救われるの?―信仰による義認、予定説」前編後編に関するものです。
 
 その6では、三谷氏より引用されている聖書箇所の解釈が間違っていることを示しました。
 
 今回取り上げる箇所でも、三谷氏がとんでもない聖書解釈をしているので、わかりやすく説明します。
 
 三谷氏は、コラム前編4)わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだというセクションで、次のように述べています。
 
 
「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、『兄は弟に仕える』と彼女に告げられたのです。『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです」(ローマ9:11)
 
この御言葉も「予定説」を支持するとされるが、よく読むと、そうではないことが分かるだろう。ここでは、神はすべての人に救いの御手を差し伸べるので、それを受け取る者のことを「愛する」と言い、拒む者のことを「憎む」という言い方をしたにすぎない。
 
 
もはや詐欺師レベル
 
 上記の三谷氏の聖書解釈は、もはや詐欺師レベルの曲解です。
 
 パウロがローマ911引用している『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』という聖所箇所は、マラキ123です。
 
 そもそもマラキ書は旧約聖書であって、メシア預言の箇所でもありませんから、イエス・キリストによる救いのことなど語っていません。
 
 それゆえ、「愛する」とか「憎む」という表現に関して、三谷氏が述べているような意味が含まれる可能性は皆無です。
 
牧師の書斎」というサイトの著者は、マラキ123で「愛する」と訳されているヘブル語アーハブの意味を、次のように解説しています。
 
 
この動詞「アーハヴ」の主語は神にも人にも用いられますが、主体が人である場合には「偏愛的な愛」を意味します。その良い例が、創世記2528節です。…
 
この「アーハヴ」の主語が神になるとき、それは神の主権的な選びの意味を持ちます。神の一方的な選びの愛、だれも文句の言えない愛、神のお気に入りとしての愛です。
 
その愛を人間の視点から見るならば「無条件の愛」ということになります。すべてのかかわりの本源の主体は選ぶ側にあるのです。
                             (強調はブログ主)
                              
*より詳しい説明は、サイトのリンクを開いてお読みください。とても良い内容が書かれています。
 
 
 同様に、マラキ123で「憎む」と訳されているヘブル語サーネーの意味を、次のように解説しています。
 
 
「わたしはヤコブを愛した」というフレーズの対立定式として、3節では「わたしはエサウを憎む」という表現があります。
 
「憎む」のヘブル語は「サーネー」です。「寵愛する」に対して「冷遇する」という意味で、神の主権的な意志です。
                              (強調はブログ主)  
 
 
 このように、パウロがマラキ書の箇所を引用したのは、神の主権的な選びを説明するためです。
 
牧師の書斎」の著者が説明しているように、神の愛は必ずしも平等に愛する愛ではありません。
 
 イスラエルの神は、ご自分が選んだ者を特別に愛するお方なのです。
 
 神の主権的な選びの愛を説明しているからこそ、ローマ916では次のような結論が出てきます。

 
ローマ916
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。
 
 
●まとめ
 
 三谷氏は聖書箇所の意味をまったく理解しておらず、とにかく持論を正当化するために聖書の言葉を利用しているに過ぎません。
 
 読者のことを考えたらとてもできない、極めて無責任な解説です。
 
 三谷氏は、問題のセクションで次のように結論づけいていますが、この結論は聖書の言っていることと正反対です。

 
このように、「予定説」を支持するとされる御言葉を丁寧に読んでいくと、それは「予定説」を支持していないことが分かる。