ダビデの日記

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「信仰義認の再解釈」に関する疑問 その8

 この記事は、クリスチャン・トゥデイ掲載のコラム「福音の回復(45)誰が救われるの?―信仰による義認、予定説」(前編後編)に関するものです。

 その7では、三谷氏が、キリストの救いと直接関連のない聖書箇所を歪曲して、持論の正当化に利用していることを指摘しました。
 
 この記事では、三谷氏が出した予定論再解釈の結論を検証します。
 
 三谷氏は、コラム前編5)「予定説」を再解釈というセクションで、次のように述べています。 
 
救いは神の「恩恵」であって、すべては「神の働き」による。その点は、従来の「予定説」の主張は正しい。何ら間違ってはいない。
 
しかし、従来の「予定説」は、人の側がその「恩恵」を受け取るかどうかの選択をすることを見落としている。…従って、「予定説」は次のように再解釈する必要がある。
 
「神の予定とは、神の呼び掛けに『応答』する者は誰であれ神が救うという予定であり、それは神の自由な意思による決定である」
 
これであれば、御言葉との整合性が取れる。 
 
●検証
 
 三谷氏はこれであれば、御言葉との整合性が取れると述べてていますが、本当にこの結論に「御言葉との整合性」があるかどうか、確かめましょう。 
 

使徒13:48
異邦人たちは、それを聞いて喜び、主のみことばを賛美した。そして、永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰にはいった。
 
 
 強調した部分にご注目ください。
 
 パウロたちが異邦人に伝道したところ、「永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰にはいった」と書かれています。
 
 この箇所の筆者は、異邦人たちの救いの決め手になった要因は、何だと言っているでしょうか。
 
 人間の意思でしょうか? それとも、神による定めでしょうか?
 
 素直に聖書を理解するなら、神による定めのゆえに、これらの異邦人が救われたと理解すべきです。
 
 
使徒18:910 
ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と言われた。

 
 パウロは歴史上はじめて、福音を携えてギリシャのコリントの町に行きました。
 
 パウロは、ユダヤ人たちから激しい反発を受けます。

 そのパウロに、「この町には、わたしの民がたくさんいる」と語り、主は彼を励まします。
 
 コリントは未伝地ですから、「わたしの民」というのは、すでに救われた人のことではありません。
 
 パウロを通して、将来的に救われる人たちのことです。
 
 さて、ここで、この箇所を原文で見てみましょう。 
 
διτι λας  στν   μοι   πολς  ν τπλει τατῃ.
なぜなら 民(単)いる わたしにとって たくさん の中に   町   この
 
 直訳すると、こうなります。
 
なぜなら、わたしにとって(一つの)民がこの町にたくさんいるからだ。
  
 ここで注目したいのは、「民」に相当する言葉が、単数形で書かれていることです。
 
 つまり、一つのグループ、あるいは一種類の民でありながらも、人数的には大勢いるということです。
 
 これは、将来的に救われてコリント教会を構成することになる人たちが、神にはわかっている、という印象を受けます。
 
 色々な御言葉とこの点を照らし合わせると、神が救われる人たちを前もって予定していると考えるのが自然です。
 
 例えば、次のような御言葉です。
 
 
神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。 
この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。
                              2テモテ1:910 
 
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。 エペソ1:4・新共同訳 
 
神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。
 
神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。ローマ8:29~30・新共同訳
 
 
 これらの聖句に書かれていることは、三谷氏の結論と大きく食い違います。
 
 聖書を素直に理解するなら、神が救いを予定していると考えるべきです。 
 
 もう一つ、三谷氏の見解と聖書が食い違う点があります。
 
 それは、「人の側がその「恩恵」を受け取るかどうかの選択をする」とする見解です。
 
 三谷氏は、救いを選択するのは人間だ、と言っているわけです。
 
 これは、第一コリント1:27~31に書かれていることと完全に矛盾します。
 
 
しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。…
これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。…
まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。
 
 
 この箇所には、私たちを救いに選んだのは神だと明確に書かれており、それは否定しようがありません。
 
 私たちがキリストのうちにあるのは、つまり、私たちが救われているのは、「神によって」生じたことだとパウロは言っています(30節)。
 
 また、神が選んだ理由も書かれており、それは、「だれをも誇らせないため」です。
 
 もし、三谷氏が言うように、私たちが選んだ結果、救われたのだとすると、私たちは自分を誇るべきだ、ということになってしまいます。 
 
 
●まとめ
 
 三谷氏は、「これであれば、御言葉との整合性が取れる」と言っていましたが、結果は全く逆でした。
 
 三谷氏が出した予定説の再解釈の結論は、明らかに聖書と食い違います。
 
 確かに私たちは、自分で救いを選らんだとか、自分がキリストを受け入れる決断を下したと感じます。
 
 その感覚や記憶が、必ずしも間違いだとは思いません。
 
 しかし、その背後に神の働きかけがあった場合、話は変わってきます。
 
 自分が下した選択や決断が、実は神の霊の働きかけによるものだとしたら、パウロが言うように、その信仰は神からの贈り物だったということになります(エペソ2:8
 
 また、聖書には次のような言葉もあります。 
 
あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。ピリピ2:13・口語訳  
 
 この御言葉が正しいなら、神は私たちの思いに働きかけて、キリストを信じたいという願いを起こせるのです。
 
 つづく