「信仰義認の再解釈」に関する疑問 その9
以上の御言葉は表現の違いがあっても、どれも一様に、「イエス・キリストを信じる信仰」によって人は義とされ救われることを教えている。
イエス・キリストを信じる「信仰」が「救い」に先行するとした「信仰による義認」を支持している。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて(神の呼び掛けを聞いて)、わたしを遣わした方を信じる者は(神の呼び掛けに「応答」する者は)、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」(ヨハネ5:24) ※( )は筆者が意味を補足
それは、神の呼び掛けに「応答」するということを意味する。そうなると、先に取り上げた一連の訳は本当に正しいのかという疑問が湧いてくる。ならば、その訳を調べてみよう。
●検証
三谷氏によるヨハネ5:24の解説を中心に検証します。
三谷氏は次のように述べていますが、これは本当でしょうか?
①イエスは、「死人」が救われるには、ただ神の声を聞いて「応答」すればよいと言われた
②わたしを遣わした方を信じる者は(神の呼び掛けに「応答」する者は)
以下は、ヨハネ5:24の「わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち」の部分です。
πιστεύων τῷ πέμψαντί με ἔχει ζωὴν αἰώνιον
信じる 方 遣わした 私を 持っている 命 永遠の
この箇所を「応答する」と訳している聖書もありません。
岩波翻訳委員会訳
私のことばを聞いて私を派遣した方の言うことを信じる人は永遠の命を持っており、さばきに陥ることなく、死から命へと〔すでに〕移ってしまっている。
新共同訳
わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
前田訳
わがことばを聞いて、わたしをつかわされた方を信ずるものは永遠のいのちを持ち、裁きにあわず、死からいのちへと移っている。
塚本訳
わたしは言う、わたしの言葉を聞き、わたしを遣わされた方を信ずる者は、(今すでに)永遠の命を持っていて、(最後の日に)罰を受けない。その人はもはや死から命に移っているのである。
口語訳
わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。
文語訳
わが言をききて我を遣し給ひし者を信ずる人は、永遠の生命をもち、かつ審判に至らず、死より生命に移れるなり。
英語聖書(NET、NIV、NASB、ESV、NLT、MSG、NKJV、NRSV、KJV)でも、ピスチュオーは軒並み「believe」と訳されており、
「respond/応答する」と訳しているものは見当たりません。
このように、ピスチュオーは「信じる」という意味であることが明らかですが、三谷氏は敢えて「応答」と言い換えています。
最終的に三谷氏は、ヨハネ5:24の意味を、強引に次のように結論づけます。
「それは、神の呼び掛けに「応答」するということを意味する」
●感想
これは、あからさまな歪曲であり、読者に対する欺きです。
こうすることによって三谷氏は、「信じる」という表現を意図的に否定しているのです。
それにしても、こういった歪曲をよくも平然と繰り返せるものです。
この方には、良心というものがないのでしょうか?
つづく