ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

「信仰義認の再解釈」に関する疑問 その9

 
 この記事は、クリスチャン・トゥデイ掲載のコラム「福音の回復(45)誰が救われるの?信仰による義認、予定説」(前編後編)に関するものです。
 
 その8では、三谷氏による予定説再解釈の結論が、明らかに聖書と食い違っていることを証明しました。
 
 この記事からは、上記コラムの後編の検証に入ります。
 
 三谷氏は、コラムの後編(1)根拠となる御言葉というセクションで、次のように述べています。
 
 
以上の御言葉は表現の違いがあっても、どれも一様に、「イエス・キリストを信じる信仰」によって人は義とされ救われることを教えている。
 
イエス・キリストを信じる「信仰」が「救い」に先行するとした「信仰による義認」を支持している。
 
しかし、これが事実であれば、イエスが教えられた「救い」の話とはまったく相容れない。イエスは、「死人」が救われるには、ただ神の声を聞いて「応答」すればよいと言われたからだ。
 
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて(神の呼び掛けを聞いて)、わたしを遣わした方を信じる者は(神の呼び掛けに「応答」する者は)、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」(ヨハネ5:24) ※( )は筆者が意味を補足
 
エスはここで、「わたしの言葉を聞いて」、「イエス・キリストを信じる者」は救われるとは言われなかった。「わたしを遣わした方を信じる者」は、と言われたのである。
 
それは、神の呼び掛けに「応答」するということを意味する。そうなると、先に取り上げた一連の訳は本当に正しいのかという疑問が湧いてくる。ならば、その訳を調べてみよう。
 
 
●検証
 
 三谷氏によるヨハネ524の解説を中心に検証します。
 
 三谷氏は次のように述べていますが、これは本当でしょうか?
 
エスは、「死人」が救われるには、ただ神の声を聞いて「応答」すればよいと言われた
 
わたしを遣わした方を信じる者は(神の呼び掛けに「応答」する者は)
 
 
 以下は、ヨハネ524の「わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち」の部分です。
 
πιστεων τῷ  πμψαντί  με  χει  ζων αἰώνιον
 信じる  方   遣わした  私を 持っている  命   永遠の    
 
 
「信じる」と訳されているピスチュオーの意味は「信じる、~を信仰する」で、「応答する」という意味はありません。
 
 この箇所を「応答する」と訳している聖書もありません。
 

岩波翻訳委員会訳
私のことばを聞いて私を派遣した方の言うことを信じる人は永遠の命を持っており、さばきに陥ることなく、死から命へと〔すでに〕移ってしまっている。
 
新共同訳
わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
 
前田訳
わがことばを聞いて、わたしをつかわされた方を信ずるものは永遠のいのちを持ち、裁きにあわず、死からいのちへと移っている。
 
塚本訳
わたしは言う、わたしの言葉を聞き、わたしを遣わされた方を信ずる者は、(今すでに)永遠の命を持っていて、(最後の日に)罰を受けない。その人はもはや死から命に移っているのである。
 
口語訳
わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。
 
文語訳
わが言をききて我を遣し給ひし者を信ずる人は、永遠の生命をもち、かつ審判に至らず、死より生命に移れるなり
 
 
 英語聖書(NETNIVNASBESVNLTMSGNKJVNRSVKJV)でも、ピスチュオーは軒並み「believe」と訳されており、

respond/応答する」と訳しているものは見当たりません。
 
 このように、ピスチュオーは「信じる」という意味であることが明らかですが、三谷氏は敢えて「応答」と言い換えています。
 
 最終的に三谷氏は、ヨハネ524の意味を、強引に次のように結論づけます。
 
それは、神の呼び掛けに「応答」するということを意味する
 
 
●感想
 
 これは、あからさまな歪曲であり、読者に対する欺きです。
 
 こうすることによって三谷氏は、「信じる」という表現を意図的に否定しているのです。
 
 そうする動機として考えられるのは、ローマ322になどに見られる「イエス・キリストを信じる信仰」という訳し方を誤訳にしたいからだ思われます。 
 
 それにしても、こういった歪曲をよくも平然と繰り返せるものです。
 
 この方には、良心というものがないのでしょうか?
 
 つづく