ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

「信仰義認の再解釈」に関する疑問 その10

  
 この記事は、クリスチャン・トゥデイ掲載のコラム「福音の回復(45)誰が救われるの?信仰による義認、予定説」(前編後編)に関するものです。
 
 その9では、引用した箇所に含まれる「信じる」という言葉を、三谷氏が意図的に「応答」と歪めてしまい、引用箇所の意味を強引に変更してしいることを示しました。
 
               ***
 
 三谷氏は、コラムの後編(2)訳を検証というセクションで、
 
 ローマ322などに見られるイエス・キリストを信じる信仰」という表現の訳し方について持論を説きはじめます。
 
これを日本語の慣習に従って読み直すと、「イエス・キリストの信実」となる。「イエス・キリストを信じる信仰」とはならない。
 
そもそも「ピスティス」には「信じる信仰」という意味などない。また、原文には「を」と訳せる言葉もない。
 
 
●検証
 
 この問題については、過去記事「キリストを信じる信仰」か「キリストの忠実さ」か?その1で取り扱いましたので、
 
 ここでは別の観点から検証します。
 
イエス・キリストを信じる信仰」という表現についてですが、これは、マルティン・ルターをはじめとする歴代の宗教改革者たちが採用してきた訳し方です。

 英語の場合は、faith in Jesus Christイエス・キリストにある信仰)と訳されています。

イエス・キリストを信じる信仰」という表現は、「イエス・キリストにある信仰」を多少意訳してわかりやすくしたものです。

 しかし三谷氏は、この訳し方は間違っていると主張しています。
 
 両者のうちどちらが正しいかを簡単に判断する方法として、私は現代ギリシャ語の新約聖書にどう書かれているかを調べました。
 
 つまり、聖書ギリシャ語と現代ギリシャ語の違いはあるにせよ、

 共通部分も多々ある言語を使うギリシャの人たちが、ピステオス+イエソウ+クリストウという表現をどのように理解しているかを調べたわけです。
 
 ギリシャ在住の友人にお願いしたところ、ギリシャで主に使用されている4種類のギリシャ語聖書から、ローマ322の問題の部分を書き出してくれました。
 
 
δικαιοσύνη δε του θεοδιά πίστεως Ιησού Χριστού....(ヴァンヴァス逐語訳;カサレヴサ擬古文体)
 
 ①の聖書は、ほとんどが聖書ギリシャ語と同じ単語で書かれているため、比較になりませんでした。

 しかし、他の3つの聖書からは、同じ結果を見ることができました。
 
 
διά τς πίστεως ες τόν ησον Χριστόν (ギリシャ語聖書協会, 1967逐語訳、やや擬古文体)
 
特徴:最も字義的で正確な翻訳と考えられる現代ギリシャ語訳聖書。
 
文法:「イエス・キリスト」の手前に、エイスという前置詞を使った訳になっている。
 
訳語:イエス・キリストにある信仰を通して  
 
 
διαμέσου τής πστης στον Ιησού Χριστό. (スピロス・フィロス逐語訳)
 
特徴:英語聖書のNKJVに相当し、現在、ギリシャ福音派聖霊派教会のほとんどが、この聖書を使用している。
 
文法:イエス・キリストの手前にストン(定冠詞+toという表現が使われている
 
訳語:イエス・キリストへの信仰を通して
 
 
δια μέσου της πίστεως στον Ιησού Χριστό. (ギリシャ語聖書協会, 2003, in Today's Greek Version)
 
特徴:NIV訳に近い感じの訳で、あまり字義的ではないが参考までに。
 
文法:イエス・キリストの手前にストン(定冠詞+to)という表現が使われている
 
訳語:イエス・キリストへの信仰を通して
 
                  ***
 
 以上のように、現代ギリシャ語聖書は、「イエス・キリストにある信仰」あるいは「イエス・キリストへの信仰」と訳していることがわかります。

 これらの表現は、文法的構造から言うと、「イエス・キリストを信じる信仰」とまったく同じ目的格属格/objective genitiveという形式の表現です。

 このことからわかるのは、次の事です。
 
 ギリシャ人の聖書学者たちも、ピステオス+イエソウ+クリストウの意味は「イエス・キリストを信じる信仰」だと考えている。


 つまり、従来の信仰義認の理解は聖書的に正しく、再解釈すればかえって誤りが生じるということです。

 この結論に疑問がおありの方は、以下のサイトにおいて、③のスピロス・フィロス逐語訳聖書を訳されたスピロス・フィロス氏に英語で質問することができます。
 
KEEEE


●おわりに

 これが判明した以上、もはや三谷氏を初め、私たち日本人がとやかく言うべきではありません。
 
 私たちよりも遥かに聖書ギリシャ語に対する語感のある人たちが、「イエス・キリストを信じる信仰による義認」という理解が正しいと考えているからです。
 
 同時に、この結果は、過去記事「キリストを信じる信仰」か「キリストの忠実さ」か?その1の結論とも一致しています。
 
 三谷氏による信仰義認の再解釈は、まったくの誤りです。
 
 コラムの後半にはまだ続きがありますが、これ以上、検証する必要性がありませんので、このシリーズはこれにて終了したいと思います。

 おつきあいいただき、ありがとうございました。