「信仰義認の再解釈」に関する疑問 その10
***
そもそも「ピスティス」には「信じる信仰」という意味などない。また、原文には「を」と訳せる言葉もない。
●検証
ここでは別の観点から検証します。
しかし三谷氏は、この訳し方は間違っていると主張しています。
共通部分も多々ある言語を使うギリシャの人たちが、ピステオス+イエソウ+クリストウという表現をどのように理解しているかを調べたわけです。
①δικαιοσύνη δε του θεοῦ διά πίστεως Ιησού Χριστού....(ヴァンヴァス逐語訳;カサレヴサ擬古文体)
①の聖書は、ほとんどが聖書ギリシャ語と同じ単語で書かれているため、比較になりませんでした。
しかし、他の3つの聖書からは、同じ結果を見ることができました。
特徴:最も字義的で正確な翻訳と考えられる現代ギリシャ語訳聖書。
③διαμέσου τής πἰστης στον Ιησού Χριστό. (スピロス・フィロス逐語訳)
訳語:イエス・キリストへの信仰を通して
特徴:NIV訳に近い感じの訳で、あまり字義的ではないが参考までに。
文法:イエス・キリストの手前にストン(定冠詞+to)という表現が使われている
訳語:イエス・キリストへの信仰を通して
***
これらの表現は、文法的構造から言うと、「イエス・キリストを信じる信仰」とまったく同じ目的格属格/objective genitiveという形式の表現です。
このことからわかるのは、次の事です。
つまり、従来の信仰義認の理解は聖書的に正しく、再解釈すればかえって誤りが生じるということです。
この結論に疑問がおありの方は、以下のサイトにおいて、③のスピロス・フィロス逐語訳聖書を訳されたスピロス・フィロス氏に英語で質問することができます。
KEEEE
●おわりに
これが判明した以上、もはや三谷氏を初め、私たち日本人がとやかく言うべきではありません。
三谷氏による信仰義認の再解釈は、まったくの誤りです。
コラムの後半にはまだ続きがありますが、これ以上、検証する必要性がありませんので、このシリーズはこれにて終了したいと思います。
おつきあいいただき、ありがとうございました。