ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

救われるには行いが必要か? その1

 
 信仰義認と関連性のあるテーマについて、短編の記事を書きます。
 
 先ごろクリスチャン・トゥデイに「救われるには信仰と善行の両方が必要」米プロテスタントの半数が同意という記事が出ました。
 
 この記事で言われていることは、裏を返せば、信仰だけでは救われない、と多くの人が考えていることを意味します。
 
 そこで、この点について聖書がどう言っているかを考えます。
 
 
●考察
 
「救われるには行いが必要か?」という疑問の答えを出すには、次の質問をすると役に立つと思います。
 

 もし行いによって救われ得るのなら、なぜパウロは、パリサイ人だった期間には救われず、幻で現れたイエスを信じたとたん救われたのか?

 
 ピリピ3章にあるとおり、救われる前のパウロは、「律法の義については非のうちどころのない者でした」(6節、新共同訳)。
 
 行いによって救われ得るとしたら、パウロほどふさわしい人はいなかったはずです。

 パウロイスラエルの神を信仰し、行いもバッチリでした。

 しかし、当時のパウロ(サウロ)は、明らかにイエスを知りませんでした(使徒95)。 

 公式にするとこうなります。 信仰+行い=不信者


 次の質問もすべきです。 

 エスと問答した金持ちの青年は、モーセ十戒忠実に守っていたのに、なぜ救われていなかったのか?

 
 彼が救われていなかったことは、彼自身が語った次の言葉から明白です。
 
「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」マタイ19:16
 
 イエスから十戒を守るよう指導されると、青年はこう答えました。
 
「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」(同19:20
 
 青年は、十戒を「みな」守ってきたと言っています。
 
「みな」と訳されているのはパンタという言葉ですので、「ことごとく」とも訳せます。
 
 それほど熱心かつ忠実に律法を守っていたのに、彼は永遠のいのちを得ていませんでした。

 この青年もパウロ同様、イスラエルの神を信じ、忠実に律法を守っていたのです。

 公式にするとこうなります。 信仰+行い=不信者
 

 その一方、死ぬ間際にイエスを信じた犯罪人は、善行どころか重罪を犯したのに、なぜパラダイスに行けたのでしょうか?(ルカ23:4243)


 この疑問の答えは、パウロ先生に答えてもらいましょう。
 

なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。ローマ3:28・新共同訳


 このケースを公式にすると、こうなります。 罪+キリストへの信仰=救い