救われるには行いが必要か? その1
信仰義認と関連性のあるテーマについて、短編の記事を書きます。
この記事で言われていることは、裏を返せば、信仰だけでは救われない、と多くの人が考えていることを意味します。
そこで、この点について聖書がどう言っているかを考えます。
●考察
「救われるには行いが必要か?」という疑問の答えを出すには、次の質問をすると役に立つと思います。
ピリピ3章にあるとおり、救われる前のパウロは、「律法の義については非のうちどころのない者でした」(6節、新共同訳)。
行いによって救われ得るとしたら、パウロほどふさわしい人はいなかったはずです。
公式にするとこうなります。 信仰+行い=不信者
次の質問もすべきです。
彼が救われていなかったことは、彼自身が語った次の言葉から明白です。
「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」(マタイ19:16)
「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」(同19:20)
青年は、十戒を「みな」守ってきたと言っています。
それほど熱心かつ忠実に律法を守っていたのに、彼は永遠のいのちを得ていませんでした。
公式にするとこうなります。 信仰+行い=不信者
この疑問の答えは、パウロ先生に答えてもらいましょう。
「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」ローマ3:28・新共同訳
このケースを公式にすると、こうなります。 罪+キリストへの信仰=救い