救われるには行いが必要か? その2
しかし信仰義認を語るとき、必ずと言っていいほど問題になるのがヤコブの手紙です。
一見すると、矛盾したことを書いているように見えますが、ヤコブの真意は何なのでしょうか。
物議を醸すこの箇所に関して、2通りの解釈を比較して考察します。
●従来の解釈
ヤコブ2:24
人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。
この箇所を素直に理解するなら、ヤコブは間違いなく、「人は行ないによって義と認められる」と書いています。
しかし従来の解釈の場合、最終的にヤコブの言葉は否定されてしまいます(引用内の強調部分)。
従来の解釈は、概ね次のようなものです。
ですからヤコブが言っているのは、私たちは信仰と行いによって義とされるということではなく、むしろ本当に信仰によって義とされた人は、人生において良い行いをすると言っているのです。
もし誰かがキリストを信じると言っておきながら、なんの良い行いもしなかったら、たぶんその人はキリストを純粋に信じていないと言えるでしょう(ヤコブの手紙2:14、17、20、26)。
●2種類の義認
私は、従来の解釈は、ヤコブの真意を伝えていないと思います。
勿論これは、パウロが説いている救いにおける信仰義認とは別物です。
従来の解釈の問題点は、前提に誤りがあるということです。
つまり、ヤコブが言う「行いによる義認」は、救われるためのものではないということです。
1:18では、「父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました」とも言っており、救われた者を対象にしていることは明らかです。
問題の2章に入ってからも、ヤコブは1節と14節で「私の兄弟たち」と呼び掛けており、この呼び掛けは3章に入ってもつづいています(3:1)。
つまり2章全体が、既に救われた信者に向けられた内容だということです。
ですから、2:24の言葉も救われた者に対する言葉です。
ということは、ヤコブが語っている「義」は、救われた者が神から受ける義だということです。
パウロが語るところの救われるための義ではありません。
***
パントンは、「キリストの裁きの御座」という著書の中で次のように書いています。
ヤコブは信じる前の行い、つまり律法の行いについて述べているのではない。
なぜなら、「信仰は彼の行いと共に働き、行いによって信仰が完成された」からである。
信じる前に働きによって義とされる、という考えを聖書は激しく否定する。「律法の行いによっては、いかなる肉も義とされません」(ローマ三・二〇)。
しかし、信じた後に行った働き、信仰によってなされた働き、「信仰の働き」(二テサロニケ一・一一)は、報いのために義とするのである。
(強調はブログ主)
二つめの義は「proper righteousness/固有の義」と呼ばれており、「外なる義」を土台として神に従うことで、信者が授かる義です3。
この義は、終わりの日に「正しい審判者である主」が、「主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださる」義で、地上における従順に対する報いです。
またパウロは、醵金(きょきん)の報いとして、信者が義を受けると言っています。
2コリント9:9~10
「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。
この箇所の「あなたがた」とは、すでに救われている信者を指しています。
ですから「あなたがたの義の実」というのは、既に救われている信者が献金の報いとして受け取る義です。
2コリ8:5に「神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ」とあるとおり、信者が忠実に神に従うことで神から授かる義があるのです。
注
3:同上
●結論
救われる際に必要なのは信仰だけです。
しかし、ヤコブ書で述べられている義について言うなら、すでに救われている信者が忠実な行いの報いとして受ける義のことです。
こちらの義を救いにおける信仰義認と混同している、従来の解釈は正しくありません。
終わり