ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

現代ギリシャ語新約聖書から証明されるNTライトの誤り

 
 この記事は、NTライトの主張に対する粗探しのようなものかもしれません。
 
 しかし、彼の言うことを盲目的に信じるよりは、ここに書かれたことを思いに留めておくほうが良いと思います。
 
 
●ピスティス・イエソウ・クリストウに関する理解
 
 私の手元にライトが書いたJustificationGods Plan and Pauls Vision(義認:神の計画とパウロのビジョン)という本があります。
 
 本書のP96~P97で、ライトは次のように述べています。
 
 
 パウロの答えは、今では有名になったピスティス・イエソウ・クリストウ/pistis Iesou Christouの問題を提起することになる。
 
 このフレーズは、「イエス・キリストの忠実さ/the faithfulness of Jesus Christ」と「イエス・キリストにある信仰/faith in Jesus Christ」のどちらにでも訳すことができる。
 
 私は複数の理由から、この箇所(ガラテヤ216)を次のように読むようになった。
 
「私たちは、人が義と認められるのは律法の行いによってではなく、メシアなるイエスの忠実さthe faithfulness of Jesus the Messiahを通してであることを知っています。
 
 それゆえ私たちは、メシアなるイエスを信じるようになったのです。
 
 それは、私たちがメシアの忠実さ(the faithfulness of the Messiah)によって義と認められるためであって、律法の行いによってではありません。
 
 なぜなら、律法の行いによっては、誰も義と認められないからです。」
 
              ***
 
 つまりライトは、ピスティス・イエソウ・クリストウというフレーズを、「イエス・キリストの忠実さ」と解釈しているわけです。
 
 一方、従来の解釈は「イエス・キリストにある信仰」あるいは「イエス・キリストを信じる信仰」です。
 
 どちらが正しいのでしょうか?
 
 単純な説明で正誤が判別できるので、過去記事で書いたものを転用します。
 
 どちらが正しいかを簡単に判別する方法として、私は現代ギリシャ語の新約聖書にどう書かれているかを調べました。
 
 つまり、聖書ギリシャ語と現代ギリシャ語の違いはあるにせよ、共通部分も多々ある言語を使うギリシャの人たちが、
 
 ピスティス・イエソウ・クリストウという表現をどのように理解しているかを調べたわけです。
 
 ギリシャ在住の友人にお願いしたところ、ギリシャで主に使用されている4種類のギリシャ新約聖書から、問題となるフレーズの部分を書き出してくれました。
 
(以下はローマ322のピスティス・イエソウ・クリストウの箇所です) 
 
 
δικαιοσύνη δε του θεοδιά πίστεως Ιησού Χριστού....(ヴァンヴァス逐語訳;カサレヴサ擬古文体)
 
 ①は、聖書ギリシャ語とほとんど同じであるため比較にならない。
 
 
διά τς πίστεως ες τόν ησον Χριστόν (ギリシャ語聖書協会, 1967逐語訳、やや擬古文体)
 
特徴:コイネー新約原典+現代語(やや擬古文調)逐語訳のインターリニア聖書からの抜粋。おそらくこのインターリニアの現代訳は、最も字義的で正確な翻訳。
 
文法:イエス・キリストの手前にエイスという前置詞を使った訳になっている。
 
訳語:イエス・キリストに対する信仰を通して  
 
 
διαμέσου τής πστης στον Ιησού Χριστό. (スピロス・フィロス逐語訳)
 
特徴:ギリシャ福音自由教会の主任牧師であるスピロス・フィロス師が①のヴァンヴァス逐語訳を現代ギリシャ語に訳した翻訳聖書で、現在、ほとんどの福音派聖霊派教会が、この現代語聖書を使用している。
 
文法:イエス・キリストの手前にストン(定冠詞+toという表現が使われている
 
訳語:イエス・キリストへの信仰を通して
 
 
δια μέσου της πίστεως στον Ιησού Χριστό. (ギリシャ語聖書協会, 2003, in Today's Greek Version)
 
特徴:NIV訳に近い感じの訳で、あまり字義的ではないが参考までに。
 
文法:イエス・キリストの手前にストン(定冠詞+to)という表現が使われている
 
訳語:イエス・キリストへの信仰を通して
 
                  ***
 
 以上のように、現代ギリシャ語の新約聖書は、「イエス・キリストにある信仰」あるいは「イエス・キリストへの信仰」と訳していることがわかります。
 
 これらの表現は、文法的構造から言うと、「イエス・キリストを信じる信仰」とまったく同じ目的格属格/objective genitiveという形式の表現です。
 
 このことからわかるのは、次のことです。
 
 ギリシャ人の聖書学者たちも、ピスティス・イエソウ・クリストウの意味を「イエス・キリストを信じる信仰」だと考えている
 
 つまり、現代ギリシャ語の新約聖書に基づいて判断すると、NTライトの解釈が間違っていることが一目瞭然だということです。
 
 この結論に疑問がおありの方は、以下のサイトにおいて、③のスピロス・フィロス逐語訳聖書を訳されたスピロス氏に英語で質問することができます。
 
KEEEE
 
 
●おわりに
 
 NTライトのように理解した場合に何が問題かというと、個人的なキリスト信仰の意味が損なわれることです。
 
 実際ライトは、上記の引用の直後で次のように書いています。
 
個人の信仰とは、彼、つまりメシアに属する者、すなわち再定義された家族を特徴づけるものである。(P97
 
 わかりやすく言うと、イエス・キリストを信じることによってもたらされるのは、単にその人が神の家族になるだけだというのです。
 
 もちろん、神の家族になることは素晴らしいことですし、それ自体を問題にしているのではありません。
 
 私が問題にしているのは、ライトが個人的救いの話をしないことです。
 
 実際、この本に「救い/salvation」という言葉が出てくるのは、244ページ中たった5ページだけです。
 
 義認をテーマにしている本なのにです。
 
 なんと非聖書的な本なのでしょうか!
 
 聖書というのは、初めから終わりまで人類の救いをテーマにした本です。
 
 そして義認というのは、救いの引き金になる霊的出来事です(ローマ10910)。
 
 それをテーマにした本の中で、救いという言葉が出てくるのが5ページだけというのは、おかしくありませんか?

 しかも、その5ページにおいて、必ずしも救いそのものを説いているわけではありません。

「義という言葉は、往々にして救いと結びつけられやすい」(P52)などと、救いの周辺の事柄を言っているページが大半です。

 P207では、自身が考える救いの概念を説いているのですが、その内容はこうです。

われわれは被造物の世界から救われるのではなく、被造物の世界のために救われるのである(ローマ8:18~26)。(強調はライト)

 聖書は、そのようなことを教えているでしょうか?

 私の聖書には、被造物が人間のために造られたと書いてあります。

 NTライトの聖書には、逆のことが書かれているのでしょうか???

 少し過激で無礼に響くかもしれませんが、ライトが説いているのはキリスト教というより、カルトだと言っても差し支えないのではないでしょうか。
 
 NTライトに傾倒されている方は、ぜひこういった点をご確認いただけたらと思います。
 
 終わり