ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

こんにちの救いの概念は聖書的か?(前半)

こんにちの救いの概念は聖書的か?
 
 
私は1980年代にアメリカの宣教団体の働きを通して救われ、その後20数年間、福音主義の中を歩みました。その間、福音派の大半の教会で信じられている救いの教理に何の違和感も持たずに歩んできましたが、最近になってその概念が聖書で教えられているものとは大きく食い違っていることに気付かされました。
 
Ⅱテサロニケ2:13~14でパウロは次のように述べています。
 
「主に愛されている兄弟たち。神は・・・あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。ですから、神は私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光を得させてくださったのです。」
 
この箇所をざっと解釈してみましょう。「初め」とは、創世記1:1やヨハネ1:1から、永遠の昔のことであることがわかります。「主イエス・キリストの栄光」とは、この箇所の文脈から、テサロニケのクリスチャンたちの救いを指していることがわかります。
 
これを私たち自身に適用すると、私たちの救いは「主イエス・キリストの栄光」だということです。十字架の苦しみと、死からの復活によって主イエスが勝ち取られた栄光の表れとして、私たちが救われているわけです。
 
ですから私たちが自分の救いの功績を、たとえ一部であっても自分自身に帰してしまうなら、私たちはキリストの栄光を奪い取ることになるのです。この問題をこの小論文で検証したいと思います。
 
 
●自己診断
まずは信仰の自己診断からはじめましょう。以下の文章は、20世紀に世界中で最も活躍したアメリカ人伝道者の著作から抜粋したものです。注意深く読んでください。
 
“The context of John 3 teaches that the new birth is something that God does for man when man is willing to yield to God. Any person who is willing to trust Jesus Christ as his personal Savior and Lord can receive the new birth now.”
 
ヨハネ3章の文脈は、人が神に屈服することを望むなら、神は人のために新生を行うと教えています。イエス・キリストを個人的な救い主、また主として信じたいと望む人は誰でも、新生を受け取ることができるのです。」
何か違和感を持ちましたか。もし何の違和感も持たなかった場合、あなたは真剣に聖書と格闘しなければなりません。私自身も格闘しなければなりませんでした。その理由は、この小論文を読み進んでいく中でわかってきます。ちなみに上記の抜粋は、ビリー・グラハム著「ハウ・トゥー・ビー・ボーン・アゲン」( How To Be Born Again, by Billy Graham)からです。
 
 
●用語の説明
さて本題に入っていく前に、ひとつだけ説明しておかなければならないことがあります。この小論文で使用する用語の問題です。
 
この小論文は、神学論文ではありません。しかし取り扱うテーマの性質上、いくつかのキリスト教用語を用います。特に福音派内で混乱して用いられている言葉で、この小論文にも出てくるものとして「新生」(ボーンアゲン)があります。
 
ヨハネ3章を見ると、3節と7節で「新しく生まれる」という表現があります(新改訳聖書)。「新しく」に当たるギリシャ語はアノセン(anothen)といい、「新しく」「再び」「上から」などの意味があります。英語の聖書ではこの箇所が、born againボーン・アゲンと訳されています。また日本語では、新しく生まれることを「新生」とか「ボーンアゲン」と呼んでいます。
 
エスヨハネ3:3で「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と教えています。つまりボーンアゲン/新生することは、天国に行くための必須条件だということです。
 
神学的には、新生は救いと同じではなく、救いに先行する出来事です。しかしこの小論文では、内容が複雑になって混乱することを避けるために同義語として扱います。
 
 
●新生は御霊による出来事
ヨハネ3章を垣間見たついでに、次のことも思いに留めて置いてください。あとで重要なポイントになることです。
 
3節の「人は、新しく生まれなければ」と5節の「人は、水と御霊によって生まれなければ」の対比から、新生とは御霊による出来事であることがわかります。
 
そして6節でイエスが「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」と言っていることからも、クリスチャンは御霊によって生まれた存在であることがわかります。イエスは「生まれる」という受動的な意味の言葉を使うことによって、新生の主導権は人にはなく御霊によるものであることを示唆しているのです。
 
 
 
●聖書と福音派における救いの概念の違い
聖書は、救いは人間主体の出来事ではなく、神主体の出来事であると教えています。
 
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2:8)
 
これに反してこんにちの福音派では、イエスを受け入れる決心さえすれば、誰でも救われると教えています。前述のビリー・グラハム氏の文章は、現代の福音派の思想を代表するものです。この時代の福音的教会の大半が、彼の教えの影響下にあると言っても差し支えないでしょう。
 
グラハム氏の文章をよく読むと、①新生(救い)の主体が神から人にすりかえられています。具体的には「when man is willing」/「人が望むなら」という一節です。この表現では人が主体となっており、あたかも人が望みさえすれば、新生(救い)が起こるかのような印象を受けます。グラハム氏は、人に新生の主導権を持たせているのです。これでは大半の読者は、自分が望みさえすれば新生できると思い込んでしまいます。
 
しかし先程、ヨハネ3章から学んだことを思い出してください。新生は人ではなく、御霊による出来事なのです。ですから、この「人が望むなら」というフレーズが登場した段階で、人間主導の新生という聖書とは違う概念が導入されたわけです。
 
またグラハム氏は②聖書と真逆のことを教えています。具体的には、「Any person ….can」/「誰でも・・・できる」という表現です。本当に誰でも新生を受け取ることができるのでしょうか。このことについて、聖書はどう述べているのでしょうか。
 
 
    について
a 救いは神主体の一方的な恵みのわざ
 
「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」
(ローマ9:16)
 
「この人々(=イエスを受け入れた人々、イエスの名を信じた人々)は、・・・人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:12~13)
 
父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。」
ヤコブ1:18)
 
「神はいのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」(使徒11:18)
 
b 信仰も神からの賜物
 
「イエスによって与えられる信仰」(使徒3:16)
 
「キリストを信じる信仰をも・・・賜ったのです」(ピリピ1:29)
 
イエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた」(Ⅱペテロ1:1)
 
「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(=ペテロの信仰告白
「このことをあなたに明らかにしたのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」
(マタイ16:16,17)
 
 
これらの聖句は①救いは神の意志による一方的な働きであり人間の意志や決断によらないこと、救いの主権は人にはなく神にあることを教えています。また②救いのみならず信仰も神からの贈り物であり、人間が頭の中で造り出すものではないことを教えています。知的に福音を正しいと認めることと、イエスを信じる信仰は別のものだということです。
 
 
    人間の無力さ
 
ビリー・グラハム氏は「人が神に屈服することを望むなら」という前提を提示していますが、ローマ3:11は「神を求める人はいない」と述べています。この食い違いは小さくありません。聖書は、グラハム氏の前提を真っ向から覆しているのです。
またグラハム氏は「誰でも新生を受け取ることができる」と述べていますが、ヨハネ6:44と同6:65でイエスは「わたしの父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」「父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない」とまったく逆のことを言っています。神が介入して、まず人の心を変えない限り、人にはイエスを信じる能力がないとイエスは教えているのです。
 
 
その他の箇所でも、聖書は人のさまざまな無力さを教えています。
 
人は・・・神の国を見ることはできません」(ヨハネ3:3)
 
人は・・・神の国に入ることができません」(ヨハネ3:5)
 
ローマ3:11 人はイエスがキリストであると悟れません
 
ローマ3:18 人は神を恐れることができません
 
ローマ8:7 人は神に従えません
 
ローマ8:8 人は神を喜ばせることができません
 
Ⅰコリント1:21 人は自分の知恵によっては、神を知ることができません