神が一番大切にしているもの
●ヒゼキヤの祈りと奇跡
Ⅱ列王記20章やイザヤ38章に、ユダの王ヒゼキヤが不治の病にかかり主に祈ると、その祈りが聞かれ、アハズの日時計の影が10度後戻りしたことが記されています。
歴史的な文献によると、ヒゼキヤの父であるアハズ王が作ったこの日時計は、地上から家の屋上に向けて設けられた外階段のようなものであったとされています。私たちがこんにちイメージする日時計はこの時代にはまだなく、約200年後にならないと発明されませんでした。ですから日時計の影が10度後戻りしたという表現は、太陽の光が階段を10段後戻りしたという意味なのです。
ある人々は、太陽の位置が移動したのではなく影だけが動いたと解釈しますが、ヘブル語の原文では「太陽が10段後戻りした」と書かれています(イザヤ38:8b)。この箇所の特別な解釈の仕方があるとしても、「影」を意味する単語ではなく、「太陽」を意味する単語がそこに使われていることは確かです。
ともかくヒゼキヤの祈りの結果、すさまじい奇跡が起きたことに間違いはありません。それだけではなく、イザヤの指示に従ってヒゼキヤがイチジクのシップを腫瘍の上に塗ると、治らないはずの病気が治り、ヒゼキヤは元気になりました。このような奇跡が起きた背景には、一体何があったのでしょうか。
●あなたの家を整理せよ
Ⅱ列王記20:1で、主はヒゼキヤに「あなたの家を整理せよ」と命じました。この言葉の内容は何でしょうか。これは彼の死後における王家の運営に備えて、政務の引継ぎをせよという意味です。その引継ぎには、後継者の任命が含まれていました。
ところがヒゼキヤにはこの点で、大きな問題がありました。彼には世継ぎがいなかったからです。Ⅱ列王記20章の最後と21章1節を見ると、ヒゼキヤが死んだとき息子のマナセはまだ12歳でした。ヒゼキヤがいやされてから死ぬまで15年生きたわけですから、この命令が語られたときには、ヒゼキヤには子どもがいなかったのです。
ですからヒゼキヤにとってこの問題は深刻です。後継者の任命ができないまま、死を迎えなければなりません。誰が後を継ぐのでしょうか。いえ、ヒゼキヤよりも神ご自身にとってはなおさら深刻です。なぜならこの事態は、ご自分が誓った契約が破られることを意味するからです。その深刻さを理解するために、ダビデ契約を少しだけ見てみましょう。
●ダビデ契約
「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」(Ⅱサムエル記7:16)
上記の言葉は、ダビデへの契約の最後の部分です。これはダビデの血筋を引く王が、ユダ王国を永遠に治めるという約束です。ということはヒゼキヤの跡継ぎは、彼の息子のはずです。しかしヒゼキヤは、子がないまま死ぬと言われたのです。だから「あなたの家を整理せよ」と。この命令に、彼はどれほど困惑したことでしょう。神は契約を破るのでしょうか。いいえ、それはありえません。となると、次に考えられることは、ヒゼキヤが神に裁かれたという疑いです。
●神の裁きか?
ヒゼキヤはもともと正しく忠実な王でした。Ⅱ列王記18章を見ると、ユダ王国の王に任命されたヒゼキヤは、宗教改革を断行しています。「高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し・・・。」(4節)その後も彼は主に忠実に仕えました。Ⅱ歴代誌29章~32章に書かれている彼の功績を考慮するなら、イスラエル全体の王の中でも賞賛に値する王のはずです。彼が死んだとき、民は「彼に栄光を与えた」と書いてあるとおりです(Ⅱ歴代誌32:33)。
正しく神に忠実な王が生涯の半ばで不治の病に冒され、跡継ぎもないまま死んでゆく。それによって、ダビデの家系が断たれてしまう。これはどこかおかしいのではないでしょうか。ヒゼキヤが置かれた窮地は、彼の罪が余りにもひどいがゆえの神の裁きとは考えられません。残された可能性は、神が意図的に用意した試練です。アブラハムが、約束の子イサクを殺せと命じられた試練を彷彿とさせられます。
●試練/神ご自身のため
神が人に試練を与えるとき、普通私たちは、その目的は私たちの訓練のためだと考えます。しかし以下の箇所では、試練は神ご自身のために行うものだと述べられています。
「見よ。わたしはあなたを練ったが、
銀の場合とは違う。
わたしは悩みの炉であなたを試みた。
わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行う。
どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。
わたしはわたしの栄光を他の者には与えない。」(イザヤ48:10~11)
また私たちは、神が窮地の中から私たちを助け出してくださるとき、それは私たちのためだと思います。私たちを愛しておられるから助けてくださったと。しかし聖書を見ると、必ずしもそうとは限らないことがわかります。
「まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。」
(Ⅰサムエル12:22)
「しかし主は、御名のために彼らを救われた。それは、ご自分の力を知らせるためだった。」(詩篇106:8)
これらの御言葉は、民が大切だったから神は彼らを救ったとは言っていません。民よりももっと大切なもの、つまりご自分の名のために彼らを救ったと述べているのです。神の名が異邦人からそしられないために、神の栄誉が汚されないために、主はイスラエルの民を救いました。
ヨシュアは神がご自分の御名を一番大切にしていることを知っていたので、次のように言いました。
「ああ、主よ。イスラエルが敵の前に背を見せた今となっては、何を申し上げることができましょう。カナン人や、この地の住民がみな、これを聞いて、私たちを攻め囲み、私たちの名を地から断ってしまうでしょう。あなたは、あなたの大いなる御名のために何をなさろうとするのですか。」(ヨシュア記7:8~9)
このように、神が人を救ったり人のために何らかの行動をとるとき、必ずしも人が大切だからそうするわけではりません。ご自分の(栄誉や義の)ためにそうするのです。ヒゼキヤの場合もそうでした。それは次の箇所からわかります。
「わたしはアッシリヤの王の手から、あなた(ヒゼキヤ)とこの町を救い出し、わたしのため、また、わたしのしもべダビデのためにこの町を守る。」(Ⅱ列王記20:6)
この節の後半に「ダビデのために」とありますが、ダビデはこのときすでに死んでいてエルサレムに住んでいるわけではありません。ですからこれは、ダビデ自身のために町を守るという意味ではありません。ダビデと結んだ契約のために、という意味です。契約を破ると神の栄誉が汚れてしまうので、ご自分の栄誉を保つために町を守るのです。
ヒゼキヤの話に戻りますが、Ⅱ列王記20章5節を見ると「あなたの父ダビデの神、主はこう仰せられる」というフレーズがあります。ここで主はご自分を「ダビデの神」と呼び、ご自身が契約を忠実に守る神であることをアピールしています。
ヒゼキヤ自身も、主が契約を守る神であることよく知っていました。Ⅱ列王記20章2節と3節に、「ヒゼキヤは・・・主に祈って、言った。『ああ、主よ。どうか思い出してください。』」とあります。
この「主」という表現はヘブル語エホヴァの訳語です。エホヴァとは「存在する者」という意味です。そしてこの呼び名は、主なる神が契約の神であることを示す呼び名なのです。
●結論
このように、私たちの神は契約の神です。神は何よりも契約を守ること、つまりご自分の義を貫くことを重視します。契約を破れば神の名が廃れます。ですから神は契約に忠実なのです。ヒゼキヤに与えられた試練の中心的な目的は、神がご自分を顕示することにありました。契約を忠実に守る神、誓ったことを決して曲げない義なる神であることを示すことが目的だったのです。
ヒゼキヤも、神が約束を守る神であることをよく知っていたので、「主」(エホヴァ)という呼び名で神に訴え、ダビデ契約を自分の人生に果たしてくださるよう懇願したのでした。そしてその訴えは神の意図に叶っていたので、神はヒゼキヤの祈りに答え、日時計の奇跡を行って彼をいやし、またエルサレムを窮地から救いました。結局、すべては神ご自身のためだったのです。
●適用
このような教えは、人間中心主義にひたってきた私たちには面白くないかもしれません。もし面白くないと感じるなら、それは私たちの自我が、神よりも自分を愛していることの現れです。神にとって人間(私たち)よりも大切なものがあるという現実が、私たちには気に入らないのです。
しかし神を愛しているなら、私たちは神の義と名声を何よりも大切にすべきです。なぜなら、神ご自身がご自分の義や名声を何よりも大切にしているからです。私たちは、パウロにならいましょう。
「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」 ローマ11:36