ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

同性愛者は殺されるべきか、それとも追放されるべきか?   レビ20:13と1列王記15:11~12

 
「聖書の現象」の記事です。
 
 キリスト教進歩主義の方がツイートしている動画815から、次のような問題が出題されます。
 
 
レビ20:13 
男がもし、女と寝るように男と寝るなら、ふたりは忌みきらうべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。
 
1列王記15:11~12 
アサは父ダビデのように、主の目にかなうことを行なった。彼は神殿男娼を国から追放し、先祖たちが造った偶像をことごとく取り除いた。
 
 
 レビ記では、同性愛行為をした者は殺されなければならないとありますが、1列王記では、神殿男娼が追放されるだけで殺されていないように受け取れます。
 
 これは矛盾しているだろうというのが、動画の云わんとするところです。
 
 この問題について調べてみました。
 
 
神殿における売春行為
 
 以下は、アメリカ聖書協会が提供する資料の抄訳です。
 
 
聖書には2種類の売春婦が登場する。
 
1番目として、お金を稼ぐことを目的としたり、個人的な好意を得るために、男性に性交渉を提供する者がいた。
 
一部の女性は、夫や父親など、血縁者による保護や援助がない場合に、生き残る手段として売春婦になった可能性がある。
 
売春婦らは男性を魅了するため、煌びやかな服や宝石を身に着けた(エゼキエル16:8~26)。
 
遊女ラハブは、ヨシュアのスパイがエリコの街に忍び込んだ後、逃げるのを助けたことでよく知られている(ヨシュア記2章)。
 
2番目の娼婦は、「神聖娼婦」または「神殿娼婦」と呼ばれる。これは女性(娼婦)または男性(男娼)で、神殿に祭られている神々の礼拝者と性行為をしていた。
 
それらの神々の多くは、その国や国民を肥沃にすると考えられていた。カナンではバールやアシェラという神々が、また後代においては、オシリスアイシスという神々が存在した。
 
預言者ホセアは、これらのカナン人の肥沃神を祭る儀式で神殿娼婦と性行為をしないよう、イスラエルの民に警告したと考えられている(ホセア4:10~19)
 
また、ユダ王国のヨシア王(BC639年~609年)は、「神殿男娼」の家を破壊した(第二列王記23:7)。神殿男娼は、カナン人の神々に仕えていた可能性がある。
 
 
解決案1
 
 動画では、1列王記の箇所が、あたかもレビ記と異なる規定を教えているかのような前提で考えていますが、そもそもその前提自体が間違いです。
 
 1列王記は、アサ王の処置を記録し、それを単に伝えているだけであって、アサ王はレビ記の規定を変更し、それに替わる新しい規定を作ったわけではありません。
 
 言い換えると、ここで問題になるのは、同性愛行為に関する規定の適用の問題です。
 
 過去のイスラエルにおいて、レビ記の規定がどのように守られていたか(あるいは守られていなかったか)の問題です。
 
 仮にアサ王がレビ記の規定を遂行していなかったとしても、だからといってレビ記の規定が変更されたわけではないので、聖書の矛盾とは言えません。
 
 
解決案2
 
 2番目の解決案は、ヘロドトスという紀元前5世紀の歴史家による神殿娼婦に関する記述に基づく考え方です。
 
 ヘロドトスは,次のように記しています。
 
バビロニアの最も忌まわしい慣行は,その地のすべての女をその生涯のうち最低一度はアフロディテの神殿に座らせ,見知らぬ者と性交させることであった
 
 
 
 上記の記述が完全に正しいとすれば、イスラエルにおける神殿娼婦や男娼は、同性の礼拝者を相手にしてたのではなく、異性の礼拝者を相手にしていたことになるので、
 
 1列王記でアサ王がレビ記の規定を適用しなくても、何ら問題にならないことになります。

 別の言い方をすると、神殿男娼の行為は同性愛行為ではなかったので、動画が言うようにレビ記の箇所と矛盾していないということです。
 
 ただし、ウィキペディアではヘロドトスの記述の信憑性が疑われているので1、この解決案は、余り当てにしないほうがいいかもしれません。
 
 
注1:「ヘロドトスは『歴史』の中で神殿売春の慣習を伝えているが、多分に誤解を含んでいるという主張もある。」ウィキペディア神聖娼婦
 
 
解決案3
 
 今回の疑問が聖書の矛盾に結びつくものではないことは、既に解決案1で述べましたが、1列王記の箇所でレビ記の規定が実行されなかった理由について考えてみました。
 
 実のところ、聖書の登場人物が、必ずしも律法の規定を実行していないという記述は、1列王記の箇所以外にも、旧新約聖書の複数の箇所で見られます。
 
 例えば、旧約聖書では、有名なソロモンの裁きの箇所で見られます。
 
 1列王記3:16~28を見ると、子供を取り合う「ふたりの遊女」をソロモンが裁く話が書かれています。
 
 このふたりは売春婦ですが、ソロモンは、ふたりが律法に違反する行為を生業としていることはまったく問題にしていません。
 
 申命記によれば、婚外交渉をした女性は、石打の刑に処せられることになっています。
 
 
申命記22:21 
その女を父の家の入口のところに連れ出し、その女の町の人々は石で彼女を打たなければならない。彼女は死ななければならない。その女は父の家で淫行をして、イスラエルの中で恥辱になる事をしたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。
 
 
 また、ダビデ王がウリヤを戦場で死なせ、妻のバテシャバと姦淫を犯した際には、主なる神ご自身がダビデを殺さず「見過ごして」います。
 
 
2列王記12:13 
ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。
 
 
 しかしこの処置は、創世記で主が語られたことと、ある意味で矛盾しています。
 
 
創世記9:5~6 
わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。
人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。
 
 
 上記の箇所では、神のかたちを帯びている人間を殺した場合、その殺人者も命を要求されると主ご自身が語っています。
 
*****


 新約聖書の事例では、マリヤの夫ヨセフがマリヤの妊娠を知った際に、
 
 婚外交渉により妊娠をしたと思われるマリアを石打にしようとするのではなく、内密に去らせようと決めています。
 
 
マタイ1:19 
夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
 
 
正しい」と訳されているのはディカイオスという言葉で、「義なる」という意味です。
 
 つまりマタイは、ヨセフが主の前に義しい人物であると言っているわけですが、その義しい人が、律法の規定を実施していません。
 
 エスさまご自身が、ヨハネ8章で現行犯逮捕された遊女を赦していることを考慮すれば、

 こういった事例は、矛盾というよりは、むしろ憐みによる妥当な処置だったのではないかと思われます(エゼキエル18:1~32、ヤコブ2:13)。
 
 現に、エゼキエル書では、そのような主ご自身の発言が見られます。
 
 
エゼキエル18:10~13 
その子が無法の者で、人の血を流し隣人の妻を汚し偶像を仰ぎ見て、忌みきらうべきことをしこういう者ははたして生きるだろうか。彼は生きられない。彼は必ず死に、その血の責任は彼自身に帰する。
 
 
エゼキエル18:32 
わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ。――だから、悔い改めて、生きよ。
 
 
 こうした憐み優先の記述は、ヤコブの言葉に集約されています。
 
 
ヤコブ2:13・新共同訳
人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです
 
 
●まとめ
 
 これらの理由から、レビ20:13と1列王記15:11~12は矛盾しているのではなく、憐みは裁きに優るという聖書全体に流れている原則が働いているものと考えてよいのではないかと思います。
 
 終わり