ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

「ヨハネ3:16は福音か?」 David Pawson 著 その2

以下の翻訳は、上記の本からの抜粋です。1章の終わりから始まり、2章に入っていきます。2章では、ヨハネ3:16の解釈が始まります。完全訳ではなく部分訳です。
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あるテレビ番組で、私は偶然、次のようなことを言いました。「私は、神がすべての人を愛していると述べている節は聖書の中には一節もないと思います」と。その晩から延々と視聴者からの応答が寄せられ続けました。それらは決まって、「ヨハネ3:16はどうですか」というものでした。この本において、ヨハネ3:16に焦点を合わせて学ぶ理由はそこにあります。このたった一つの節が、「神の愛の福音」を正当化しているからです。
 
 
2章       言葉の意味
 
このようなわけで、神の愛は無条件ではないことを説明するに当たり、私たちはヨハネ3:16に焦点を合わせていきたいと思います。
 
「愛した」
この「愛した」という言葉については、長々とした説明が必要です。ギリシャ語には、英語の「愛」に相当する言葉がいくつもあるからです。そのため、聖書を読んでいて「愛」という言葉に遭遇したなら、私たちは立ち止まりその「愛」がどの意味の愛なのかを考えなければなりません。そこで少しだけギリシャ語のレッスンをさせてください。
 
「愛」と訳される最初のギリシャ語は、エピスミア/epithumiaです。これは「情欲」に相当する言葉です。もちろんエピスミアは私たちにとって、何としててでも避けるべき愛です。
 
この他にあと3種類の愛が、ギリシャ語にはあります。第一番目はエロス/erosです。・・・エロスは実質的には「魅力」を意味し、性的な愛を述べています。これまでに作曲された歌の75%以上がこのエロス、つまり男女間の引き付け合う力について歌っています。エロスは感情に由来する愛で、あなた自身には制御することができません。エロスのスイッチを点けたり消したりすることはできないのです。それは燃えるか冷めるかのどちらかであり、あなたの思い通りになりません。というのは、エロスは化学反応によって生じるものだからです
 
神は「世」をエロスで愛することはありません。神は人間に対して、エロスによる魅力を感じているわけではないのです。つまり、神は人間との恋に落ちたわけではないということです。この世の中では、「愛」といえばもっぱらエロスを指しますが、ヨハネ3:16を読むに当たって、エロスの愛を念頭に置くのは不適切です。というのは、エロスは利己的な愛でもあるからです。エロスは相手から何らかの見返りを求める愛で、相互に与え合うことを望むのです。
 
第二の愛はフィレオ/phileoです。これは兄弟愛を意味していて、「好意」という愛です。フィレオは感情というよりは精神的な愛で、両者間に共通の関心事を見出します。英語のlike/好きという言葉に相当します。
 
最後はアガペです。この愛は行動の愛です。言い換えると、エロスは感情が中心の愛、フィレオは精神、しかしアガペは意志を中心にした愛です。アガペに一番近い英語はcare/思い遣りです。誰かを思い遣るということは、2つのものを与えることを意味します。あなたの注意を相手に向けることと、相手のために何かをすることです。アガペは、相手のために行動する愛なのです。実質的には、相手の必要に応答する愛です。アガペは相手の魅力に応答するのではなく、相手の関心事に応答するのでもありません。アガペの愛で行動するということは、相手の必要に応答することです。その必要を思い遣り、それに関して何かをするのです。
 
良きサマリア人が示したのが、このアガペの愛です。サマリア人は、半殺しにされた人に恋をしたわけではありません。好意を持ったのでもありません。思い遣りを示し、相手の必要に応じて行動したのです。このようにアガペは、意志に基づいているという性質上、アガペせよ、と命じることが可能なのです。だからこそイエスは、私たちにも「同じようにしなさい」と命じました。
 
若い男女を一つの部屋に連れて来て、「あなたがたは愛し合いなさい」と命令することは不可能です。なぜなら、彼らは恋に落ちるか落ちないかのどちらかだからです。また彼らに向かって、互いにフィレオの愛で愛し合いなさいと命じることもできません。というのは、彼らは共通点を持っているかもしれませんが、持っていないかもしれないからです。しかし彼らに対して、アガペで愛し合いなさいと命じることはできます。
 
これを結婚式に置き換えてみましょう。キリスト教式の結婚式に参列すると、牧師がⅠコリント13章を引用します。「愛は親切です。愛は寛容で・・・」この箇所の愛はアガペです。クリスチャンの結婚は、アガペが中心なのです。
 
牧師は誓いの言葉を述べる際、「汝は彼女に好意を持ちますか」とは尋ねません。あるいは「汝は彼女に恋をしますか」とも言いません。「汝は彼女を愛しますか」と尋ねるのです。そしてそれに対する応答は、「はい、そうします」(I will)です。「気が向いたらそうします」ではありません。どのような状況においても、私は彼女をアガペで愛しますという意味です。
 
はっきり述べますが、良き結婚にはアガペだけでなく、エロスが必要です。エロスによってお互いが惹かれ合うべきです。しかしエロスだけの結婚は長続きしません。二人が恋に落ちたのと同じようにして、その恋ははかなく終わるからです。フィレオに基づいた結婚は、もう少し長持ちするでしょう。しかし遅かれ早かれ、アガペを必要とするようになります。なぜならアガペは生涯を通して継続する愛だからです。つまりその愛は、意志によって互いを思い遣り、行動する愛だからです。
 
愛に関しては、十分述べたのではないかと思います。「神は世をアガペしました。」このフレーズは、神が世に好意を持ったという意味ではありません。また世に魅力を感じたのでもありません。人間が神の気を惹いたわけではないのです。それは、神が思い遣りを示し、必要を理解して行動したという意味です。
 
しかし未信者が「神はあなたを愛しています」と言われたとき、その人はどう思うでしょうか。「私には何か愛される理由があるに違いない。神は私に、好意を持ってくれているに違いない。私には、神を惹きつける魅力があるに違いない。私は神にとって、特別な存在なのだ。神は私に恋をしたに違いない。」
 
ヨハネ3:16には、そのような意味はまったく含まれていません。この世界は、アガペの愛をほとんど知りません。フィレオについては少しだけ知っています。そしてエロスについては、実に良く知っています。ですから「神はあなたを愛しています」と言った場合、誤解されてしまうのです。神による罪の赦しを体験して初めて、人はアガペの意味を理解し始めるのです。
 
そういうわけで、ヨハネ3:16の愛は、神が人間に魅了されたという意味でありませんし、神の兄弟愛を意味しているのでもありません。それは私たちの必要に対する神の思い遣りであり、行動なのです。「神は、そのひとり子を与えたほどに、世をアガペした。」つまり、このフレーズには神の行動が述べられているのです。神が私たちの必要をご覧になり、それに対してとった行動が描写されているのです。