呼ばわる者に答えてくださる主 詩篇3篇
主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。
多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない。」と。セラ
しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。
私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。セラ
以下にその箇所を抜粋しました。これを読んでから詩篇を読むと、
臨場感が増すと思います。
2サムエル記15:13~17
ダビデのところに告げる者が来て、「イスラエル人の心はアブシャロムになびいています。」と言った。そこでダビデはエルサレムにいる自分の家来全部に言った。「さあ、逃げよう。そうでないと、アブシャロムからのがれる者はなくなるだろう。すぐ出発しよう。彼がすばやく追いついて、私たちに害を加え、剣の刃でこの町を打つといけないから。」
王の家来たちは王に言った。「私たち、あなたの家来どもは、王さまの選ばれるままにいたします。」こうして王は出て行き、家族のすべての者も王に従った。しかし王は、王宮の留守番に十人のそばめを残した。王と、王に従うすべての民は、出て行って町はずれの家にとどまった。
1節に「敵がふえてきた」「立ち向かう者が多くいます」とあります。
これは並の多さではないようです。
6節の「幾万の民」の部分に使われている「アーム」というヘブル語は、
軍事的な派遣団や軍隊を意味することもあるそうです。
2節、4節、8節にある「セラ」は、
音楽記号である可能性が高いようです。
賛美の際にアカペラにしたり、逆に楽器の演奏だけにして、
主をほめたたえる時を持つよう指示しているのではないかと説明されています。
そう理解すると、ハバクク3章に出てくる「セラ」も説明がつくとのことです。
主よ。私はあなたのうわさを聞き、主よ、あなたのみわざを恐れました。この年のうちに、それをくり返してください。この年のうちに、それを示してください。激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください。
神はテマンから来られ、聖なる方はパランの山から来られる。セラ/その尊厳は天をおおい、その賛美は地に満ちている。
4節の「主に呼ばわる」「私に答えてくださる」の部分ですが、
それによって確信を得て、6節の言葉を語っていると説明しています。
「私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。」(3:6)
●5節~8節
私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。
私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。
主よ。立ち上がってください。私の神。私をお救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち、悪者の歯を打ち砕いてくださいます。
救いは主にあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。セラ
5節の「ささえてくださる」の部分は未完了形で書かれていることから、
「ささえる」という行為が継続的な動作を表しており、
主がささえてくださることが現在進行中であるか、
習慣的に主がささえてくださることを示すものだと解説されています(NET)。
6節の「私を取り囲んでいる」の部分は、
字義通りには、「私に立ち向かって周囲にいる」と書かれているそうです。
つまり単にダビデを取り囲んでいる民ではなく、
アブシャロムの軍隊だということでしょう。
七十人訳には、「周囲にいる者たちが攻撃に加わっている」と書かれています。
7節の「立ち上がってください」の部分には、
2節の「立ち向かう」と同じ語根の言葉が使われていることから、
ダビデが主に、今度は主が、敵に対して「立ち向かってください」と、
懇願しているのだとしています(NETバイブル)。
●まとめ
この詩篇が、
試練の中に置かれている兄弟姉妹の励ましとなりますように!
逆境の中に立たされるときも、四面楚歌に置かれるときも、
主に叫ぶと平安と守りの確信が与えられる。
これは信仰者の特権ですね。
主はエレミヤにも同じことを告げられました。
エレミヤ29:11~12
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。
↓最後までお付き合いくださりがとうございました↓