ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

「ヨハネ3:16は福音か?その4

以下は「ヨハネ3:16は福音か?」という本の部分訳です。シリーズで少しずつ掲載しています。今回で4回目です。
 
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文法
ヨハネ3:16に使われている言葉の意味をこれまで見てきましたが、今から、文法のほうに移りたいと思います。この節の文法を詳しく見ることによって、驚愕の事実が判明するからです。
 
ヨハネ3:16の理解ためになくてはならない文法の知識は、動詞の「時制」です。一般によく取り扱う「時制」として、過去、現在、未来があります。ギリシャ語にも当然「時制」があります。しかしギリシャ語の時制は、さらに詳細に分別されています。私がみなさんに紹介したい時制はaorist/エアリストといい、不定過去という時制です。ギリシャ語の不定過去の特徴は、過去に一度だけ起こったことに関して述べる際に使われるということです。通常の過去形は、一度だけとは限らず、何度起こっていても同じ過去形です。しかしエアリストは、その動作が過去にたった一度だけ起きた場合に使います。
 
例えば「十字架に付けられた」というとき、どの時制が使われているともいますか。キリストが十字架にかかったのは一度だけなので、エアリストが使われているのです。ですから、聖書の原典を読んでいてエアリストが使われていたら、その動作は過去に一度だけ行われたということなのです。
 
もう一つのご紹介したい時制は、現在形です。ただしギリシャ語の現在形は、いわゆる現在進行形です。これは、今現在、その動作が継続しており、未来にも継続することを意味します。この現在進行形を知ることで、聖句に新たな光が照らされます。例えばイエスは、次のようには言いませんでした。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタイ7:7)。この箇所の動詞はすべて現在進行形ですから、「続ける」という言葉を付け加える必要があります。つまりイエスは「求め続けなさい。・・・捜し続けなさい。・・・たたき続けなさい。・・・」と言ったのです。
 
それではヨハネ3:16に使われている動詞を見ていきましょう。まず初めに「お与えになった」にはどの時制が使われているでしょうか。答えはエアリストです。神はひとり子を一度だけ「お与えになった」のです。神は、特定の機会に一度だけひとり子を与えました。
 
次に2つの現在進行形の動詞を見ましょう。最初は「信じる」です。ヨハネ3:16の原文には、「それは御子を信じ続ける者が」と書かれています。これはヨハネ福音書の特徴です。ヨハネは「信じる」という動詞を用いる場合、現在進行形にしていているのです。言い換えると、信じる決心を一度だけすれば救われるというものではないということです。信じ続けることによって救われるのです。信仰は継続的な動作だということです。ですからあなたは次のように言うことはできません。「私は過去に一度信じたから、救われているのだ」と。これは間違いです。信じ続けなければなりません。「御子を信じ続ける者が・・・永遠のいのちを持つ」のです。信仰とは、信頼と従順の継続なのです。
 
次の動詞「持つ」に行きましょう。「それは御子を信じ続ける者が・・・永遠のいのちを持ち続けるのです。」こう書くことで、この聖句の意味が多少変わるのではないでしょうか。いのちを持ち続ける者とは、信じ続ける者だということです。
 
それでは最も驚かされる動詞に行きましょう。「愛された」です。この「愛された」は一度限りの行為でしょうか、それとも継続的に愛が続いているのでしょうか。答えは、エアリスト形です。神は、たった一度の機会に、一度だけ世を愛したのです。多くの人は、ヨハネ3:16を読むとき、今も神が世を愛していると捉えています。しかしそうではありません。この聖句は、歴史上に一度だけ神が世をアガペしたと述べているのです。アガペは、必要を満たす行為を示すことも念頭に置いてください。こう考えれば、神が一度だけアガペしたことに納得がいくはずです。問題はほとんどの人が、ヨハネ3:16は「神はすべての人をいつも愛している」という意味だと思ってしまっていることです。しかしそうではないのです。この聖句の意味は、神が、ある機会に一度だけ、私たち罪深い人類のために一つの行為をしてくださった、という意味なのです。ですから私たちは、この聖句を基にして、神はすべての人を愛しているとか、神はいつでも人を愛しているという概念を構築することはできないのです。この聖句には、そのようなことは書いてありません。
 
神の愛は、博愛ではありません。焦点の定まらないあいまいな愛ではなし、いつでもどこにでもあるというわけではないのです。神の愛は常にイエスの十字架に集約されています。そして私たちの必要に目を向け、それに対して根本的な対応をすることに集約されているのです。