ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

選ばれた人々

「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。」 Ⅰペテロ1:2   
   
「神はすべての人々の救いを望んでおられる」という言葉を見聞きしても、こんにちの日本の福音派では、おかしいと思う人はほとんどいないかもしれません。もし誰かが、「神は全人類の中の一部の人々しか救おうとしていない」と言ったなら、その人のほうが白い目で見られるのではないでしょうか。あたかも、イエス・キリストを救い主また神として告白しさえすれば、世界中のすべての人が救われうると聖書が教えているかのように考えられています。
 
しかし2000年余りにわたる教会の歴史に目を向けるなら、そのような考えは間違った教えとして、信仰の先人たちから白い目で見られることをみなさんはご存知でしょうか。アウグスティヌスもマルチン・ルターもジャン・カルビンもそのような考えは持っていませんでした。万人救済主義に近いこんにちのような考えが横行するようになったのは、ここ200年くらいのことです。大半の信者が聖書本来の教えから逸脱しているこんにちの福音派は、危険な状態にあると言わざるを得ません。
 
もし神が全人類の救いを願っておられるとしたら、冒頭のペテロの言葉はどう解釈すればよいのでしょう。ペテロの信仰によれば、イエス・キリストを信じ十字架の血によって救いを受けるよう前もって神に選ばれた人々がおり、私たちクリスチャンこそ、その「選ばれた人々」だというのです。使徒ペテロの信仰は間違っているのでしょうか。
 
ペテロは、第一の手紙と同じ人々に宛てて第二の手紙を書き次のように述べています。「兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい」(Ⅱペテロ1:10)。第一の手紙の冒頭で、ペテロが「選ばれた人々」と呼んでいた人たちに、この手紙では「選ばれたこと」を確かなものとするよう勧めています。
 
この言葉は変わることのない神の言葉であり、「しなさい」との命令でもありますから、こんにちの私たちも、神によって前もって救いに選ばれたことを確かなものとしなければなりません。神がそのように命じておられるにもかかわらず、私たちが「いいえ、神様。あなたは人類の一部だけを選ぶようなお方ではありません。あなたはすべての人を救おうとしているのです」と言い返すべきでしょうか。

パウロ
「主に愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。」(Ⅱテサロニケ2:13)
 
上記の聖句をⅡテサ2:5からの文脈の中で見ると、パウロは、諸教会を開拓したときに、救われたばかりの信徒たちに、神が世の初めから彼らを選んでおられたことを教えていたことがわかります。パウロが10節の「滅びる人たち」と、テサロニケ教会の選ばれた人たちを対比させて終末の状況について説明しているのがわかります。
 
また以下にあげるパウロの言葉も、ペテロと同調しています。神に選ばれた人々が存在し、その人々に伝道するためにどのような苦しみにも耐え忍ぶとパウロは言っています。そして自分が使徒として召されたのは、神に選ばれた人々の信仰のためだとも言っています。ですから、もし「選ばれた人々」が存在しなかったなら、パウロ使徒として伝道や教えの働きに召されることはなかったのです。
 
「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」(コロサイ3:12)
 
「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び・・・私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」(エペソ1:4~5)
 
「私は選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。」(Ⅱテモテ2:10)
 
イエス・キリスト使徒パウロ-私は、神に選ばれた人々の信仰と、敬虔にふさわしい真理の知識とのために使徒とされたのです。」(テトス1:1)
 
●ただ恵みにより
「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:24)
 
上記の聖句に、「価なしに」という言葉があります。この言葉に当たるギリシャ語は、ヨハネ15:25の「彼らは『理由なしにわたしを憎んだ』」の「理由なしに」と同じ言葉です。ですからローマ3:24は、神が私たちを「理由なしに」義と認めると教えているのです。つまり私たちの側に何らかの救われるべき理由があったから救われたのでなく、ただ神による無条件の選びと一方的な恵みによって、人は救われるのです。
 
ペテロが勧めているように、選びの教理を自分の中で確かなものとするからこそ、神の恵みの深さが際立ちます。私たちは、この恵みを安っぽい人間中心主義で薄めてはなりません。信仰の先人たちは聖書を調べ、神によって選ばれた人だけが恵みによって救われることがわかっていたので、そのように信じていたのです。私たちもこの世の風潮に調子を合わせることなく、聖書の教えに堅く立っていきましょう。