ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

選ばれた人々3

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。(ローマ10:13)

聖書は、旧約でも新約でもそうですが、書かれたときには章も節もありませんでした。一枚の手紙、一本の巻物であり、文章は区切りのない一続きだったのです。それを近代の人々が章に区切り、しばらくのちに節に区切りました。
 
読みやすくなった利点はありますが、特定の聖句を文脈から抜き出して解釈するという弊害も生み出されました。ですから私たちは、特定の聖句を解釈するときは必ず、もう一度文脈の中に戻し、文脈の中で解釈しなければなりません。それを怠るときに、間違った解釈が生じます。
 
上記の聖句も、現代人のクリスチャンによって、しばしばその弊害の犠牲になっている聖句の一つと言えます。この聖句を正しく理解するためには、もう一度ローマ10章の文脈に戻して解釈しなければなりません。
この聖句の意味は、道を歩いている誰かを無作為に連れてきて、「あなたは死後に天国に行きたいですか。もし行きたいなら、『主よ』と叫んでください。聖書に『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる』とありますから、あなたも主の名を呼ぶなら、救われて天国に行けます」と説得し、その人がそのとおりにしたならその人は救われたのですというような、あさはかなものではありません。
 
まず「主の御名」とは、イエス・キリストの人格を指しています。ですから道端を歩いている人が救われるためには、キリストの人格を知る必要があります。イエス・キリストとはどういうお方なのかを知る必要があるのです。単にイエス・キリストという名前を口で発するのとは、まったく意味が違います。
 
次に13節の「呼び求める」は、前後の文脈を見るなら、パウロが11節の「信頼する」や14節の「信じる」と同じ意味で理解していることがわかります。この「信頼する」「信じる」という意味のギリシャ語ピスチューオーは9節や10節でも使われており、14節までの文脈におけるキーワードとなっています。ですから少なくとも9節、10節からの文脈の中でこの13節を解釈する必要があります。そのためには、まず9節、10節を正しく解釈しなければなりません。
 
パウロの文章は緻密であるため、正しく理解するためにはどうしても原語のニュアンスを把握しなければなりません。また、新約聖書は約2000年前に他国の人々によって他国の人々宛てに書かれた書物ですから、正しく理解するには当時の歴史的文化的背景を知る必要もあります。
 
●告白
9節、10節で「告白」と訳されている言葉があります。これはホモロゲオーというギリシャ語で、「同じ」という意味のホモスと、語る、話す、言うという意味のロゴーからできています。ですからホモロゲオーは「同じことを言う」というのが原義で、これが「同意する」「賛成する」という意味で使われていました。
ですから9節、10節の「イエスを主と告白する」というフレーズの意味は、イエスを主として認め、そう告白するということです。
 
●背景
ここで当時のギリシャ・ローマ社会に生きていた人々には、大きな問題が生じます。当時のギリシャ・ローマ社会では、キュリオス(ギリシャ語で「主」という意味)といえばローマ皇帝を指していました。そして人々はローマ皇帝をキュリオスとして崇拝させられていました。もし誰かが、皇帝以外の人物を指してキュリオスと呼ぶならそれは大問題です。別の皇帝が存在し、別の皇帝を崇拝しているとみなされるからです。
そのような人はローマ皇帝を否定する者、皇帝に反逆する者とみなされて殺されなければなりませんでした。ですからクリスチャンがギリシャ・ローマ社会でイエスを主と告白することは、まさに命がけのことだったのです。「ローマ人への手紙」はこのような社会的背景の中にいるローマのクリスチャンたちに書かれているのです。
 
●9,10節の解釈
新改訳聖書の本文では、9節の冒頭に使われているホティーというギリシャ語の接続詞が、「なぜなら~だからです」という意味に訳されていますが、注釈にあるとおり、ホティーには「すなわち」という意味があり、この意味で使われている箇所のほうがずっと多いのです。
また10節の「義と認められる」とは、神から罪なしと宣言されて罪の赦しを受けていること、すなわち救いを受けていることです。ですから新改訳聖書で「救われるのです」(10節)と未来形のようなニュアンスで訳されている部分は、原典では現在形です。
 
これらを念頭において9節、10節を解釈するなら、パウロが言っていることはこうなります。「すなわち、あなたが、イエスこそキュリオス(主)であると同意して告白しており、こころからイエスの死と復活を信じているなら、(あなたは真のクリスチャンであり)救いをまっとうすることができます。人は心から信じることで義と認められており、口で告白しているなら、その人は救われているのです。」
 
●重要な点
ですから集会で伝道者が9節、10節を引用し、ノンクリスチャンに向かって「もしあなたがイエスを主と告白するなら、あなたは救われるのです」と教えることは、まったくの誤用です。パウロは、すでに救われているローマのクリスチャンたちに真に救われている人の信仰がいかなるものかを解説しているのであって、未信者に対して救われるための方法を述べているのではありません。ノンクリスチャンは、命がけでイエスをキュリオスとして告白などできません。先に述べたとおり、もともと「ローマ人への手紙」は未信者ではなく信者に宛てた書物なのです。
 
●11、12、13節の解釈
以上のことを踏まえつつ解釈すると、これ以降の各節の意味は次のようになります。
12節「ユダヤ人とギリシャ人(=異邦人)の区別はありません。同じ主が、すべての人(=すべての人種)の主であり、主を呼び求める(=信頼する、11節参照)すべての人(すべての人種)に対して恵み深くあられるのです。」
 
12節でパウロは、この世界のすべての人が救われうると言っているのではありません。神は救いにおいて、人種の区別をしないことを強調しているのです(ガラテヤ3:28参照)。
13節はヨエル2:32の引用です。この箇所は、主がレムナントを残しており、そのレムナントの中に主が呼んでおられる者たちがいることを教えています。つまり、世界のすべての人種の中に神が救おうとしている者たちがいることをパウロは強調しているのです。
 
言い換えると、ローマ10章においてパウロは、ユダヤ人のように行いで救いを得ようとするのは間違いで、信じること(ピスチューオーすること)によって、人種とは無関係に異邦人であっても救いを得られるのだということを説いているのです。
 
そこで13節は次のような解釈になります。
「主の御名を呼び求める者(=イエスの人格に信頼する者)は、だれでも(ユダヤ人でなくても)救われる」のです。
 
11節について、あえてこの順番で説明します。「彼に信頼する者は、失望させられることがことがない」の「失望させられる」はカタイシフーノーというギリシャ語が使われており、「恥をかかされる」という意味です。パウロはこの箇所において、たとえ異邦人であっても、イエスに信頼する者は恥をかかされることはない、つまり信じることによってユダヤ人でなくてもちゃんと救いを得ることができると言っているのです。
 
これらの解釈が妥当であることは、11章の冒頭を見れば明らかです。11章は1節の「すると、神はご自分の民(ユダヤ人)を退けてしまわれたのですか」という問い掛けで始まっています。

●結論
ですからローマ10章13節は、この世に存在するすべての人が、御名を呼ぶという条件さえ果たせば救われることが可能だということを意味しているのではありません。神は人種の区別をせず、たとえ異邦人であっても、イエスの人格に信頼する者はだれでも救われるという意味なのです。

●信頼する者とは
問題は、イエスの人格に信頼できる者とは誰であるかです。「だれでも」と言われてはいるものの、すべての人は罪のゆえに、神を求めることすらできません(ローマ3:11)。ましてやイエスに信頼することなど不可能です(ローマ3:12)。
 
そのような悲惨な状態にある人間ですが、神に選ばれているなら恵みによって信じることができるのです。以下の箇所は、ピシデヤのアンテオケでの伝道の場面です。ルカが、選ばれた人々の救いについてこのように描写しています。
「永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰に入った。」(使徒13:48)
パウロバルナバの聴衆の中に「永遠のいのちに定められていた人たち」がおり、その人たちだけがイエスを信じたのです。定めれていなかった人たちは信じませんでした。このように神は、一方的な恵みによって全人類の中の一部の人たちを救いに選んでおり、その人たちは福音のメッセージを通して救いに入れられるのです。
 
●羊=選ばれた人々
選ばれている人々について、ヨハネ10章25~26節からも見てみましょう。
 
エスが宮に集まっているユダヤ人たちと話し、彼らがイエスを信じられない理由を説明しています。一風変わった論理展開をしているので、注意深く読んでください。
 
「あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。」(26節)
 
普通とは違う論理ですね。普通は次のように言うはずです。
「あなたがたは信じません。だからあなたがたはわたしの羊ではありません。」
 
ところがイエスの理由付けはその逆で、羊ではないから信じないと言っているのです。イエスは彼らが自分の羊ではないと断定しており、彼らが羊でないがゆえにイエスを信じないと述べています。彼らが信じない根拠は彼ら自身にあるというよりも、彼らが生まれながらに置かれている霊的なカテゴリーにあるというのです。
 
言い換えると、イエスを信じるための条件があり、それはイエスの羊であることなのです。イエスの羊であるなら、イエスの声を聞いて信じることができるし、そうでなければ信じることができません。イエスと話していたユダヤ人たちはもともとイエスの羊ではないので、彼らはイエスを信じることができないとイエスは言っているのです。この違いは小さくありません。
 
人間には「羊」と呼ばれている人(=救いに選ばれている人)と、そうでない人がいることがわかります。イエスを信じるように定められている人といない人です。そしてこの条件は、福音の聞き手には変えることができません。聞く前から決まっているからです。イエスご自身が伝道したにもかかわらず、ユダヤ人たちは信じることができませんでした!
 
マタイもこの羊ついて次のように記しています。マタイ25章33~34節から見てみましょう。
「(栄光の御座についた人の子は)羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。』」
 
この「世の初めから」御国を受け継ぐように備えられた人たちとは、エペソ1:4では「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び」と書かれている人々、つまり私たちクリスチャンです。Ⅱテサロニケ2:13では「神は・・・あなたがたを初めから救いにお選びになったからです」とあります。私たちクリスチャンは、神の恵みによって羊として永遠の昔に神によって選ばれました。何とありがたいことでしょうか。これを恵みと言わずして、何と言うのでしょうか。この神の恵みに感謝しましょう!