ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

選ばれた人々4

「神は、すべての人々が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」Ⅰテモテ2:4

過去の記事でも述べましたが、21世紀を生きる私たちは、聖句の字面だけを見て表面的な解釈をしないように肝に銘じなければなりません。聖書を解釈するときは、聖書全体を含めた文脈の中で解釈しなければなりません。冒頭に上げたⅠテモテ2章4節も、しばしば解釈において間違えられている箇所です。この聖句を正しく理解するには、2章のはじめから続いている文脈を見なければなりません。

2章1節
「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。」

新改訳聖書では、「すべての人のために」と「王」の間に「また」という言葉を入れていますが、この「また」という言葉は、原典には存在しません。そのため口語訳では、このような言葉は訳されていません(注)。しかしこの「また」という言葉が災いして、あたかも「すべての人」とそのうしろの「王とすべての高い地位にある人たち」が別の人々を指しているかのように読めてしまいます。

注:口語訳「そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。 」

しかしここでパウロは、「すべての人」の言い換えとして「王とすべての高い地位にある人たち」と続けているのです。つまり、「すべての社会的階層の人」という意味です。「この世には社会的に色々な種類(階層)の人々がいる。王もいれば、その他の高い地位に就いている人々もいる。そのすべての社会的種類(階層)の人々のために祈りなさい」と教えているのです。

4節の「すべての人」も同じことです。「神は、すべての社会的階層の人々が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられる」というのがこの聖句の意味です。

もしこの「すべての人」という言葉を表面的に解釈して、世界に生きているすべての人間と解釈するなら、3節の意味はこうなります。「この地球に存在している70億人全員のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。そうすることは、神に喜ばれることなのです。」

しかしヨハネ17章を見るなら、イエス・キリストですらこの世の一部の人々のためにしか祈っていません。「わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです」(9節)。「わたしは、ただこの人々のためにではなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします」(20節)。つまり弟子たちと、彼らの伝道を通して救われた人々です。言い換えれば、イエスは「選ばれた人々」のためにしか祈らなかったのです。

もし神が文字通り「すべての人々が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられる」としたら、イエスが9節のような言葉を発することはありえません。また、もし地上に生きるすべての人間のために祈ることが神に喜ばれることであるなら、イエスは必ずそのように祈ったはずです。イエスほど神に忠実なお方はいないからです。

新約聖書中の「すべての人」
新約聖書中には、上記以外の箇所でも「すべての人」あるいは「すべての人々」と書かれている箇所がいくつもありますが、ほとんどの場合、文字通りの「すべての人」という意味ではありません。

例1)
ローマ5:18に「ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです」とあります。もしこの箇所の「すべての人」を表面的に解釈すると、「ひとり(イエス・キリスト)の義の行為によって、人類が創生されてからこんにちにまでに生まれてきたすべての人間および終末に至るまでに生まれてくるすべての人間が救われる」ことになってしまいます。この考えは「万人救済主義」と呼ばれ、イエスを信じても信じなくても、神は究極的にすべての人を救うのだという危険な教えにつながります。実際、過去においてこのような教えが広まった時代があり、教会は闘わなければなりませんでした。

例2)
Ⅰコリント15:22に「アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです」とあります。この2番目の「すべての人」を表面的に解釈するなら、「キリストを信じても信じなくても、地球上に生まれるすべての人間が救われる」という意味なってしまい、例1と同じことになります。ですからこの聖句の2番目の「すべての人」は、「キリストにあるすべての人」と解釈しなければなりません。

実際、原典では「キリストによって」の「よって」という部分は、英語のinにあたるエンというギリシャ語が使われています。ですから、この箇所をギリシャ語に忠実に訳すなら「油注がれた者にあって、すべての人が生かされるからです」となります。事実、新共同訳は「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである」と訳しています。つまり、新改訳聖書は、この箇所を誤訳しているということです。

例3)
使徒2:17に「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」とあります。表面的に解釈する人たちは、これを根拠にして終末のリバイバルにおいては、地球上に存在するすべての人間の上に聖霊が注がれると解釈します。しかしこのあとを見ると、「息子」「娘」「青年」「老人」「しもべ」(奴隷)「はしため」(女奴隷)が預言を語ると書かれており、社会的な階層が表現されています。

救われていない人は神にそむき、悪霊に従って生きています(エペ2:2)。また救われていない人は神の怒りを受けており(エペ2:3、ロマ1:18)、神に裁かれています(ヨハ3:18)。そのような霊的状態にある人たち全員に神の聖なる霊が注がれると解釈するのには無理があるばかりか非聖書的でもあります。ですからこの箇所の「すべての人」も「すべての種類の人」「すべての階層の人」と解釈すべきです。

このようにすべての聖句は文脈の中で解釈しなければなりませんし、聖書全体に流れている教理との関連を考慮して解釈しなければなりません。特に「すべて人」という表現には注意が必要なのです。

●テトス2:11
この節の「すべての人を救う神の恵みが現れ」というフレーズも、当然上記の原則にのっとって解釈する必要があります。もしこの箇所が「地球上に生まれてきたすべての人間を救う神の恵みが現れた」と解釈するなら、今までにキリストを拒んで死んでいった人々まで救われなければなりません。しかしそのような解釈は馬鹿げています。ですから、ローマ10:12の「すべての人」と同じように、ユダヤ人と異邦人、つまり「すべての人種」と解釈すべきでしょう。

ヨハネ12:32
「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のとろに引き寄せます」とイエスが述べています。この節だけを見ると、イエスの十字架によってすべての人間が救われると言っているかのようです。しかし度々説明しているように、「すべての人」を今までにこの地球に生まれてきたすべての人、またこれから生まれてくるすべての人と解釈するなら、地獄に行く人はゼロになってしまいます。ですからこの箇所の「すべての人」も、別の解釈をしなければなりません。

ヒントは12:20にあります。はじめは、イエスと弟子たちの周囲にいたのはユダヤ人だけでした(9節)。しかし20節で、祭りに参加するためにベタニヤに何人かの「ギリシャ人」がやって来ました。イエスは23節で、このギリシャ人たちに向かって話し始めます。その話が32節まで続いているのです。

では、イエスはどのような意味で「すべての人を自分のところに引き寄せます」と言ったのでしょうか。それは、ユダヤ人だけでなく異邦人も救いに導くという意味です。新約聖書では、「ギリシャ人」ということによって異邦人という意味を表しています。ですから32節の「すべての人」とは、ユダヤ人+異邦人で「すべての種類の人」「すべての民族」という意味です。ちなみに、このギリシャ人=異邦人という表現方法は、パウロも何度も使っています(ロマ1:14、同2:9、同10:12、Ⅰコリ1:22~23、ガラ3:28)。。

「すべての民族」と言う解釈は、ガラテヤ3章によっても支持されます。ガラテヤ3章によれば、創世記12:3のアブラハム契約=福音であり(3:8)、ゆえにアブラハムに語られた祝福がイエスの十字架を通して異邦人に及んでいることがわかります(3:14)。創世記12:3で「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」と神が言っていますが、この「すべての民族」がヨハネ12:32のイエスの言葉では、「すべての人」と言い換えられているのです。

●2種類の人間
聖書は、霊的な意味で2種類の人間がいることを教えています。創世記3:15に「おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く」とありますが、「おまえの子孫」とはサタンに属しキリストを信じることのない人々のことであり、「女の子孫」とはキリストおよびキリストに属する人々(選ばれた人々)を指しています。前者については、ヨハネ8:44でイエスがこう述べています。「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。」

この他にも2種類の人間を描写している箇所はいくつもあります。マタイ25:32~34「羊と山羊」、ヨハネ10:26~27「わたしの羊」と「わたしの羊に属していない」人、Ⅰコリント1:18「滅びに至る人々」と「救いを受ける私たち」(参照:Ⅱテサ2:10の「滅びる人たち」)、マタイ25章の「愚かな娘と賢い娘」、「小羊のいのちの書に名が書いてある者」(黙示録21:27)と「小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書き記されていない者」(黙示録13:8、同17:8)などです。

●神の恵み
このように聖書は、はっきりと「神によって選ばれた人々」とそうでない人々がいることを教えています。すべての人に救われる可能性があるとは、まったく述べていません。

パウロはエペソ1:6において、一部の人々だけが神から選ばれ救いに定められている理由は、「恵み
の栄光が、ほめたたえられるため」だと教えています。

またローマ9:11~13では、神が「ヤコブを愛し、エサウを憎んだ」のは、その二人が「まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの確かさが、行いにはよらず、召してくださる方による」ためであるとパウロが説明しています。

私たちは、このような方法で恵みを表すと定めている神をありのままで受け入れ、信じ、愛する必要があります。神を人間中心主義の枠にはめ込むべきではありません。神の恵みをぼやかしてはならないのです。