ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

選ばれた人々5

「神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」使徒17:30

この聖句は、人類(アダムとその子孫)に対する神の契約と関係があります。ホセア6:7に次のように書かれています。

「彼らはアダムのように契約を破り、その時わたしを裏切った。」

ポイントは、創世記2:16~17の言葉は、神の契約だったということです。その箇所を振り返りましょう。

「神である主は人に命じておおせられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』」

これは条件付の契約です。「もしあなたが、善悪の知識の木の実さえ食べなければ、永遠に死ぬことはない(=永遠に生きることができる)。」つまり、一つの禁止令さえ守れば、永遠のいのちに至ることができるという契約です。

このように人間は、神に創造された時から、神の命令を守るように定められていました。それはローマ9:20からもわかります。被造物は、単に被造物であるという理由だけで、創造者に従わなければならない定めの下に置かれているのです。

アダムも上記のような条件の命令の下に置かれました。そのような条件付の定めの下で、神は永遠のいのちをアダムとその子孫に提示したのです。しかし知ってのとおりアダムとその子孫はこの神のテストに落第し、契約を破りました。このようにしてアダムと私たち人類は、神に対して罪を犯したのです。

契約を破るなら(罪を犯すなら)、罰が伴います。それはこんにちのこの世の契約と同様です。たとえば、私がどうしても買いたい物があって、銀行から借金をしたとします。しかしお金をたくさん借りすぎて、私の返済能力を超えていてしまいました。よって、私は返済ができません。

では銀行あるいは裁判所は、「はい、わかりました。返さなくていいですよ」と言うでしょうか。とんでもありません。銀行と私の間には契約があり、契約を破れば法にのっとって私は罰を受けなければなりません。返済する能力がたとえなくても、罰は受けなければならないのです。

これと同じことが、神と人間の間にもあります。人間は神の命令に従う能力がありません。アダムが罪を犯したためです。しかし能力がないからといって、神の契約を破ってしまった責任がなくなったわけではないのです。たとえ神の命令に従う能力がなくても(悔い改める能力も含む)、依然として人類には神の命令に従う義務があり、契約を破った罰を受けれなければなりません。

すべての人間は神に罪を犯したのですから、すべての人間が神に悔い改めなければならないのです。この責任は、選ばれている人々かどうかとは関係ありません。ただ一点、アダムの子孫かどうか、すなわち神の被造物かどうかということと関係しているのです。

ですから冒頭の御言葉は、あらゆる人間に対して、例外なく当てはまるものです。イエス・キリスト以外のすべての人間は、神に対して悔い改めなければなりません。もちろん恵みによって救われるから悔い改めもできるのるのですが、たとえ救いに定めれていない人、つまり悔い改めることなどできない人であっても、アダムの子孫であるなら、また神の被造物であるなら、ただそれだけの理由で悔い改めの義務があるのです。

●無知な時代との違い
しかし、疑問が一つ残ります。無知の時代と今の時代は違うとパウロは言っています。この時代の違いとは、どういうことなのでしょうか。その答えは、ローマ3:25にあると思います。

「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見逃して来られたからです。」

またヨハネ14:6にこうあります。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

イエス・キリストが神を知る唯一の方法です。キリスト以外に、神を知る方法は人類に与えられていません。福音を聞く機会があるなしにかかわらず、神がキリスト・イエスを神への唯一の道として公にお示しになったことに変わりはありません。

エスの十字架を境に、神の悔い改に対する秩序が変わったと考えられます。イエスの公生涯の最初の一言は、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」でした(マルコ1:15)。この言葉は、この秩序の更新と深く関連していると思います。

以上の理由から、冒頭の御言葉は、文字通りにすべての人が悔い改めを命じられていると解釈すべできです。ただし命じれてはいても、そうする能力は、恵みによって救いに定めれている人しか与えられません。そこが神の主権の厳しいところですが、ここでもまた、選ばれた私たちクリスチャンは、価しない恵みのゆえに神をほめたたえるわけで、その神への賞賛こそが、全人類の中から一部の人々を選んだ神の理由なのですから(エペソ1:6)、私たちはそれを受け入れなければなりません。